重邨先生末田君碑

  安佐北区亀山南の両延神社に建立されている「重邨先生末田君碑」です。
末田重邨(1822-1869)儒者、教育者。名は■、字は子温、号は重村、通稱は直馬。
高宮郡大毛寺村人で、両延八幡の祠官の二十一世として生まれました。
幼少のころから学問を好み、初め野坂由節に学び、後、豊後の廣瀬淡窓に学び都講に推挙されるほどでした。帰郷し、豊田郡入野邑(村)民の招きを受け赴任しました。
父の死去で、大毛寺村に帰り1853(嘉永6)年私塾「三亦舎(さんえきしゃ)」を開きました。塾生は芸備雲石の数か国から来学しました。明治己已(2年)6月29日病没没年48歳でした。
門人たちの醵銭によって、友人であった藩学教授木原籍之撰文の碑を建てました。
■、末田の名は廉と思うのですが、(碑に刻まれた文字は漢和辞典にはありませんでした)
(ひろせたんそう)
広瀬淡窓:
(1782-1856)
江戸後期の儒学者。豊後(現在の大分県)日田の人。名は建。字は子基。別号、青渓など。咸宜園(かんぎえん)を開き、子弟を教育。大村益次郎(1825-1869)・高野長英(1804-1850)はその弟子。著「遠思楼詩鈔」「約言」など。
しかん
祠官
神社の祭礼・社務に携わる人。かんぬし。神官。
とこう
都講
(1)塾生のかしら。塾頭。
2)尚復(しょうふく=平安時代、天皇や東宮の読書始めの式で、侍読(じとう)が教授したところを復習した役。)」に同じ。
きょ
多くの人で金銭を出し合う。「醵金・醵出」
2010年4月(可部・下の浜)明神社の境内で佐々木星峡先生寿碑の碑文に佐々木は末田の三亦舎(さんえきしゃ)に学び先生の代行を務めるほどになったとありましたので、末田重邨の事を(わたしは)少し知りました。
今(2011年6月)回両延神社境内に「重邨先生末田君碑」建立されており、碑文からここ両延神社の祠官の子として生まれた事を知りました。
11.07.03.裕・記編集

11.06.25撮影
広島市安佐北区亀山南3-18-40   両延神社

11.06.25撮影

11.06.25撮影

11.06.25撮影
敬称は略しました。



「広島ゆかりの人たちの石碑など」編



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