小野篁おの の たかむら生誕之地・碑

  東広島市河内町入野の竹林寺参道に建立されている「小野篁生誕之地・碑」です。
※賀茂郡河内町は、2005(平成17)年2月7日賀茂郡黒瀬町・豊栄町・福富町などとともに東広島市に編入されました。
藝州入野の郷に、その頂上より夜々光を放ち、日々紫雲たなびく山があった。
730(天平2)年行基上人(668-749)がこの山に登られ、霊光を放っていた桜の大樹を切り、「千手観音尊像」を刻みお堂を建て、「桜山花王寺」と名付けられた。これが「竹林寺」の始まりである。
当時この山の麓に竹野辺秀識なる人に仕える、八千代という女性があった。八千代は常にこの寺の御本尊を信仰し千日の参詣を続けていたが、満願の日の夜半お堂の中から童子が現れ五色の玉を彼女に授けた。やがて八千代は802(延暦21)年の春、男子を出産したが、この子が自ら「吾れはこれ篁なり」と名乗った。
八千代は不思議に思いながらよろこんで養育につとめたところ、幼時よりまことに聡明で竹野辺殿にいつくしまれたという。
長じて12歳の時、東の平安京をめざして郷里を出発した。都での篁はいよいよ勉学に励み学芸、詩歌に優れた有名な人となり、関白・小野大臣良相の娘と結婚して小野家を継ぎ「小野篁」と号した。
篁は、時の嵯峨天皇に仕え、参議に登用され、されに文学博士に任ぜられたという。また、篁は非凡の人で昼はこの世で人々のために働き夜は冥途に至って冥官として罪の軽重を裁いたといわれ、852(仁寿2)年51歳の時、京都愛宕寺前で大地を蹴破り地底に入られたという。更に篁は、百年後再びこの世に生まれ僧となって、郷里の竹林寺で冥途の十王尊像の内九体を刻み残り一体は自ら生身の仏となられたという。
その時から寺号も「篁山竹林寺」と改められた。この物語は、(広島)県重要文化財「紙本着色竹林寺縁起絵巻」のあらましである。                (広島県賀茂郡)河内町  河内町観光協会
(おののたかむら)
小野篁:
(802-852)
平安前期の学者歌人漢詩人。通称、野宰相野相公。岑守(みねもり)の子。参議。清原夏野らと「令義解」を撰。博学で詩文に長じたが、性直情径行、野狂と呼ばれる。詩文は「経国残篇」「扶桑集」「本朝文粋」などに、歌は古今集にみえる。「小野篁集(篁物語)」は後人の仮託。
篁物語: 小野篁の名を借りた、実録風の短編物語。作者不詳。成立には諸説があるが、平安末期とする説が有力。全1巻、2話から成る。
第1話は、歌物語形式で描かれた大学生(だいがくのしょう)の篁と異母妹との悲恋物語とか。
小野篁の事は、今回設置の説明板を読むまで知らなかったのです。篁も「たかむら」と読めませんでした。
この話の根拠となっているのが広島県の重要文化財に指定されている紙本著色絵巻上下二巻だと云う事を知り絵巻を見たいものだと思っていたら、東広島市郷土史会の松浦氏に「広島大学デジタルミュージアム」で見ることができる事を教えていただきましたので見ました。また、産湯川沿いの産湯川神社が生誕の地とされているということも教えていただきました。
なお、お墓は京都堀川通り北大路(北区紫野)に(紫式部の墓と並んで)あり、滋賀県志賀町には小野篁神社があり篁を祀っている事をNET情報で知りました。
昔、訪ねた時は、お参りする人もなくさびしいお寺でしたが、今回はお参りする人も多いかなと思い。また、竹林寺への山道は狭くて車の離合がしずらいというおぼろげな記憶があり)ましたが、女房運転の車で行きました。お寺の特別な行事があるからでしょう、中腹の所の駐車場に車を置き、そこからはお寺が手配されているマイクロバス(無料でした)でお寺に行く事になっていましたので、マイクロバスでお寺の少し下の広場(臨時の駐車場)まで連れて行って頂きました。そこからお寺の方に歩いていた時にみた石碑でした。
10.06.28裕・記編集

10.05.05撮影
東広島市河内町入野   (竹林寺参道根際)

10.05.05撮影



































10.05.05撮影

10.05.05撮影



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