福島大和守の墓

  安佐南区中筋に建立されている「(伝)福島大和守の墓」です。
『福島大和守の墓と伝えられている石塔で、大和守を名乗る人物の内のだれかは不明ですが、何基かの五輪塔の残欠と考えられます。』と「あさみなみ散歩マップ:東野・川内ルート」に紹介がありました。
(ふくしまもとなが)
福島元長:
(?-1597)
戦国時代の武士。福島親長の娘・宮福と結婚し福島家を嗣ぐ。源三郎、大和守を称す。
福島氏は川之内海賊衆の有力な家でした。
1525(大永5)年までに武田氏を離れ大内方に帰順。
1551(天文20)年毛利元就が佐東郡に兵を進めた時にこれに応じる。
1589(天正17)年2月毛利輝元が(広島)城を築く為現地調査をした時には元長の屋敷に立寄り元長の案内で現地に臨んだ。福島氏の屋敷は古川の左岸にあったといわれている。
(かわのうち・
 かいぞくしゅう)

川之内海賊衆:
太田川下流域を拠点とする中世の海賊。佐東衆ともいう。
通常は航行する商船を武装船で護衛し警固料を徴収するのを業としたもので、水主(かこ:漕ぎ手)と上乗衆(うわのりしゅう:戦闘員)から成っていました。
福島、福井、山県、飯田、賀屋などの諸氏が知られており、福島氏は中調子、中筋一帯に拠点を置いていました。
マップに福島大和守とは、「川の内警固衆」と呼ばれた水軍の将で・・・とあったので、今回訪ねました。
海賊という言葉を嫌い、「川之内水軍」、「川之内警固(けご)衆」、「佐東衆」などとも呼称しているようですが、資料にあった「川之内海賊衆」という言葉をこの頁では使用しました。
また、福島氏の中でも広島の名の由来説に取り上げられる人物でも有名な福島元長をここでは取り上げてみましたが、この墓がそうだというわけではありません。
10.01.10裕・記編集

10.01.06撮影
広島市安佐南区中筋4-2

10.01.06撮影

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10.01.06撮影
福島大和守の墓

10.01.06撮影

10.01.06撮影



「広島ゆかりの人たちのお墓」編



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