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安佐南区川内の川内小学校に建立されている「(川内村)三役戦捷紀念碑」です。 |
正面:三役戦捷紀念碑 陸軍中将從四位勲二等功三級 田部正壮書 |
*田部正壮(1849-1939)は、十二代広島市長も務めた人物です。 |
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この石碑は、1894(明治27)年〜1895(明治28)年の日清戦争、1904(明治37)年〜1905(明治38)年に勝ったことと、1900(明治33)年〜1901(明治34)年の北清事変(義和団事件)をしずめた事を紀念(記念)して、1911(明治44)年3月に川内村によって建てられたものです。
この石碑には、川内村から戦争に参加した人々の名前が刻まれています。
この石碑は、日本が歩んだこれまでの歴史における一つの事実を物語っています。この事実をもとに他の国と戦争していたころの社会の様子や歴史などを学習し、二度と戦争が起こることのないよう、平和の大切さについて考えましょう。 |
1992(平成4)年6月広島市教育委員会 |
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明治27・8年戦役:
(日清戦争) |
1894(明治27)年朝鮮の支配権をめぐって日本と清国との間で起こった戦争。
朝鮮で起こった甲午(こうご)農民戦争鎮圧のため清国が出兵したとき、対抗して日本も出兵、豊島(ほうとう)沖で開戦。日本は平壌の戦いや黄海の海戦などで勝利を収め、翌(明治28)年下関で講和条約を結んだ。 |
(ほくしんじへん)
北清事変: |
明治33年事変、義和団事件のこと |
(ぎわだんじけん)
義和団事件: |
1899(明治32)年〜1900(明治33)年、列強の進出に抗した中国民衆の外国人排外運動。山東省に始まった義和団の運動が華北一帯に波及、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、日・英・米・露・独・仏・伊・墺(オーストリア)連合軍の出兵を招き、鎮圧された。日本は1万3千の大軍を派遣という。日本では北清事変ともいう。団匪事件。 |
明治37・8年戦役:
(日露戦争) |
1904(明治37)年2月から1905(明治38)年にかけて、満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国は米国大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。 |
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戦捷(せんしょう) |
→戦勝。1.戦争に勝つ。2.勝いくさ |
仲秋(ちゅうしゅう) |
1.秋三か月のなかの月。旧暦八月。2.旧暦八月十五日。 |
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広島市教育委員会設置の説明板には1911(明治44)年3月建立とありますが、
碑側面には「仲秋」と刻まれており、辞書を引くと8月または8月15日とありますので、1911年8月あるいは1911年8月15日建之ではないかと(わたしは)思いますが。 |
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NETで知り合った、ヨボG先生がブログでこの(川内村)三役戦捷紀念碑を紹介されていました。
わたしは、それ以前に「川内村戦没者戦災死者供養塔」が建立されている、ここ川内小学校に来た事もあり、この碑が建っている前のスーパーで、すいた小腹をみたすためにパンを買って、この碑の方を向いて出て行ったにもかかわらず、気が付いていませんでした。次の機会に撮影しようと思っていたのです。
今(2011年1月)回「福島大和守の墓」を訪ねた時に、冬休みでしたが、立ち寄ってみたのです。
丁度、正門横の燃料庫に行っておられる先生をみましたので、声を掛け、校内に入り撮影させていただきたいとお願いし、許可を得ましたので、校内からも撮影できました。 |
11.01.20裕・記編集 |