西郷四郎逝去之地

  尾道市東久保町に建立されている「西郷四郎逝去之地・碑」です。
   正面:西郷四郎逝去之地
   側面:昭和二十六(1951)年十月七日建之  大正十一(1922)年二月二十三日歿
   裏面:(碑文)講道館柔道創開ノ際予ヲ助ケテ研究シ・・・大正12(1923)年1月14日 講道館師範 嘉納治五郎
西郷四郎先生は日本柔道界の奇才で、嘉納治五郎師範が講道館を創設した頃。それを助けて日本柔道を大成した人です。小柄な体躯でしたが、その特技「山嵐」の大技は天下無敵の稱がありました。小説・映画で有名な「姿三四郎」は西郷先生がモデルでした。大正9(1920)年病気(神経痛)療養の為(妻の郷里の)尾道に来て、この(碑の)上の吉祥坊(浄土寺の末寺で現在は廃寺)に仮寓し養生につとめましたが、大正11(1922)年12月23日57歳で亡くなりました。
                                    昭和46(1971)年晩秋 西郷四郎先生五十回忌追悼法要委員会
西郷四郎 (さいごうしろう: 1866−1922)
明治時代の柔道家。西郷頼母(たのも)の養子。越後(えちご:新潟県)出身*。旧姓は志田。
嘉納治五郎(かのうじごろう:1860-1938)に師事。立ち技山嵐(やまあらし)をあみだし、講道館四天王のひとりといわれた。のち「東洋日の出新聞」編集人。富田常雄の小説「姿三四郎」のモデルとされる。身長が5尺(約150cm)と小柄であったそうです。大正11年12月23日死去。
* 1866(慶応2)年会津藩士志田貞二郎の三男として生まれ。一家は、戊辰の戦乱(1868年)を逃れて津川(新潟県)に転居し、四郎もそこで少年時代を過ごしました。16歳のとき、会津藩家老を勤めた西郷頼母(たのも)の養子となりました。頼母は、会津藩秘伝の大東流合気道柔術の継承者で、柔術の達人だったそうです。
浄土寺の参道(にあたる処の)沿いに「西郷四郎之像」が設置されていると云う事を知りましたので、浄土寺から尾道市立中央図書館に行く途中見逃してはいけないと思いながら歩いた時にみましたので、撮影しました。
像手前にこの「西郷四郎逝去之地」碑が昭和26(1951)年建立されていました。碑裏の碑文は師である嘉納治五郎が撰したものでした。この逝去の碑から40年ほど経ったときに西郷四郎像が建立されことがわかりました。
11.05.23更新  11.05.10裕・記編集

11.03.04撮影
広島県尾道市東久保町2附近  (西郷四郎之像と西郷四郎逝去之地・碑)

11.03.04撮影

11.03.04撮影

11.03.04撮影



「広島ゆかりの人たちのお墓」編



広島ぶらり散歩へ
西郷四郎逝去之地
今城国忠作:西郷四郎之像


「尾道市」編・全体





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送