頼山陽詩碑

  尾道市東土堂町の千光寺公園“文学のこみち”に建立されている「頼山陽詩碑」です。
磐石ばんじゃくく松
松翠しょうすいくる処海光かいこうあらわる
六年かさねて来たる千光寺
山紫水明さんしすいめい指顧しこ
萬瓦ばんがなかば暗くして帆影はんえい斜なり
あいつと残杯ざんぱいいまだ傾け去らず
こうべめぐらしてねんごろに諸少年にしょく
記取きしゅせよ先生かって酔いしところ























































広島県竹原の人×、「日本外史」「日政記」などを著わし、明治維新の大業成就に寄与したところは大なるものがあった。
尾道には文雅の友も多く、度々来遊したが、この詩は、文政12(1829)年、千光寺山に登ったときの作である。
頼山陽 (らいさんよう: 1780-1832)
江戸時代後期の儒者。大坂生れ。頼春水の長男。母は頼静子。名は襄(のぼる)。字は子成。通称は久太郎。別号に三十六峰外史。
江戸で尾藤二洲(じしゅう)らにまなぶ。21歳で安芸を出奔、脱藩の罪で自宅幽閉となる。赦免ののち、京都で開塾。幽閉中に起稿した「日本外史」は、幕末の尊攘派につよい影響をあたえた。著作はほかに「日本楽府(がふ)」など。
文学のこみち24番目が陣幕久五郎句碑で、そこから少し進んだ処に、現在の‘文学のこみち25基’の最後の文学碑(にあたる25番目の碑)がこの「頼山陽詩碑」です。
頼山陽は、1780(安永9)年大坂に生れおおむね6歳まで大坂で育ちました。以後広島に移り、1810(文化7)年暮に神辺の(菅茶山の)廉塾の塾頭になるために広島を離れるまで(旅などで不在になった時もあったようですが)広島に住んでいましたので、竹原の人という説明板の記述は間違いと思います。
11.04.23裕・記編集

11.03.04撮影
広島県尾道市東土堂町 千光寺公園・文学のこみち

11.03.04撮影

11.03.04撮影



「文学碑など」編


(尾道)文学のこみち



広島ぶらり散歩へ
橋本次郎作:頼山陽之像
(文学のこみち)頼山陽詩碑


「頼山陽関連」編



「尾道市」編





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送