(尾道)玉浦絵巻

  尾道市土堂の尾道商工会議所根際の堤防壁に建立されている「玉浦絵巻」です。
2005(平成17)年に完成したという「玉浦(ぎょくほ)絵巻」は住吉浜堤防の内側壁に取付けられています。
玉の浦とは尾道のみなとの事だそうです。
設置されている玉浦絵巻は、1m四方の石板15枚に、略史が2枚、中世が4枚、近世が6枚、近現代が3枚、全15章で構成されています。(1)と(2)が玉浦絵巻(尾道は商人の町)、(3)以降が足利尊氏・足利義満、朝鮮使節、遣明船。(7)以降が江戸時代、北前船、文人尾道へ、富籤、明治維新、西南戦争。(10)以降が山陽鉄道、太平洋戦争、未来。そして、尾道港という構成で、碑文は入船裕二氏だそうです。
玉浦絵巻: 天下分け目の関ヶ原の後、日本のあちこちに、城下町が生れた。
尾道は違う、古くからの港町だ、
江戸は大名小名の上屋敷、下屋敷が軒を連ね、武家の人口は約五割、町民と相半した。
天下の台所、大阪はどうか、商人、職人、行商人、その家族を含めると町民は圧倒的に多数、武家の人口は一割だった。
尾道はどうか、文化文政の頃(19世紀始め)尾道の人口は約一万人、西の端に町奉行所、東の端には番所、浅野藩から出向いた武家の人口は、百分の一、ここは商人の町だった。
尾道港:
(住吉浜)
嘉応元(1169)年「後白河院庁公認の港」となった尾道港は、市街地背後にある浄土寺山、西国寺山、千光寺山と対岸の向島に囲まれた「自然の良港」でした。
江戸時代、この地方を治めていた芸州藩では「政治は広島、台所(財政)と文化は尾道」と謡われ、ここ住吉浜は北前船など多くの船舶の寄港で賑わっていました。
江戸中期、その船舶の輻輳に伴って、住吉浜の修築工事、藩の直轄事業として行われ、以来、近代まで尾道港の中心的役割を果たしてきました。
数多の歴史を刻んできた住吉浜の痕跡を目前の「雁木」等の港湾施設の中にみる事ができます。
近代、この住吉浜は瀬戸内海の島嶼部はもとより、阪神・九州から遠く北海道までの物資輸送基地となり、また近隣諸国との貿易を行う国際港となって、入港する船舶は順番待ちをしたほどでした。
また、夜船で広島に帰る頼山陽はここで豪商たちと別れの盃を汲み、梁川星厳(漢詩人:1789-1858)夫婦は長崎からの帰り、尾道で長旅の疲れを癒しました。
北前船が寄港すると浜は沸き返るようでした。
(あしかがたかうじ)
足利尊氏:
船団が征く 貝を吹き 銅鑼を鳴らし 布刈の瀬戸を埋めて 足利の船団が征く 軸艫千里 兵庫へ島は重なり 水は重なる 御大将尊氏公は麾下の幕僚を従え 浄土寺へ参籠して必勝祈願 また
余裕綽綽 三十三首 法楽の和歌を奉納する  建武三(1336)年五月五日 
(あしかがよしみつ)
足利義満:
三代将軍また 海を征く 讃岐へ 次いで周防へ 厳島参詣に名を借りた 諸大名への示威だった
大内氏も膝を屈した 帰途は尾道 守護の山名氏も出迎える 船橋を架け 義満将軍は 
天寧寺へ宿る その頃 尾道の海は広かった 時に 康応元(1389)年春 
足利尊氏:
(1305-1358)
室町幕府初代将軍。在職1338-1358。初め高氏と称し、後醍醐天皇の諱・尊治の一字を賜って改名。元弘の変で六波羅(ろくはら)を攻め落としたが、のち天皇に背き、持明院統(じみょういんとう)の光明天皇を立てて北朝を興した。延元3=暦応元年(1338)に征夷大将軍となり、室町幕府を創始。
足利義満:
(1358-1408)
室町幕府第3代将軍。在職1368-1394。義詮(よしあきら)の子。南北朝合一を果たし、中国・明と勘合貿易を開いて室町幕府の最盛期を現出した。能楽の保護、金閣の建立などにみられるこの時代の文化を北山文化とよぶ。北山殿。
JR尾道駅から海岸通りを歩き、大雁木があり、(尾道)住吉神社が見えた処で、堤防壁に何やら刻まれているなと思い近づきみました。「玉浦絵巻」という、尾道を紹介している文章でした。
絵巻と謳っていますが文章だけですので、玉浦巻物とでも云うものですね。先にみた「おのみち海辺の美術館」、そしてここでは「玉浦絵巻」と殺風景な堤防壁をうまく利用して尾道を宣伝しているように(わたしは)思いました。
11.04.01裕・記編集

11.03.04撮影
広島県尾道市土堂2-10-3 尾道商工会議所根際の堤防壁   (向側:尾道住吉神社)

11.03.04撮影

11.03.04撮影
玉浦絵巻(のはじまり)

11.03.04撮影
尾道港(住吉浜)

11.03.04撮影
足利義満 足利尊氏



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