文樂(軒)之墓、竹本弥太夫之墓

  尾道市東久保町の海龍寺に建立されている「文樂(軒)之墓」、「竹本弥太夫之墓」です。
この供養塔は、尾道へ浄瑠璃を教えに来ていた文楽軒と初代竹本弥太夫のものです。
文楽軒(1810年歿)は、大阪の文楽座創設者。
中国地方の諸大名に招かれ城内で浄瑠璃を演じたそうです。
文楽軒歿後、代わりに竹本弥太夫(1820年歿)が尾道に浄瑠璃を教えにきました。
歿後、尾道の弟子達が供養塔を建て二人の戒名を彫り追慕した。
大阪以外の地方に、この様な供養塔があるのは大変珍しく尾道商人の当時の盛隆ぶり、偲ばれるものです。
(資料:大阪大学名誉教授・角田一郎博士)
うえむら ぶんらくけん
植村文楽軒
1751-1810
人形浄瑠璃・文楽座の始祖。文楽の創業者。本名は正井与兵衛。淡路島仮屋(兵庫県津名郡東浦町)の出身。植村文楽翁を名乗る。
寛政頃に大坂の高津橋南詰西の浜側に浄瑠璃稽古場を開場。1805(文化2)年新地に立人形興行を始め、これが文楽座の源流。のち1809(文化6)年堀江に転移。
*供養塔には(歿年月日)を文化7年7月10日と刻んでいますが、Wikipediaでは、7月9日としています。
たけもと やたゆう
竹本彌太夫
?-1820
有規堂千賀太夫の門下で竹本千代太夫。一時豊竹磯太夫を経て弥太夫となった。
通称を「紙屋弥太夫」。
*供養塔には(歿年月日)を文政3年5月10日と刻んでいますが、Wikipediaでは、5月13日としています。
にんぎょうじょうるり
人形浄瑠璃
日本の古典芸能のひとつ。三味線伴奏の浄瑠璃に合わせて、人形を遣う人形劇。
慶長(1596-1615)ごろ発生。貞享年間(1684-1688)作者の近松門左衛門と太夫の竹本義太夫が提携して成功を収めて以後、主に義太夫節によって行われるようになった。
京坂を中心に盛行、歌舞伎にも大きな影響を与えた。現在の文楽に受け継がれている。
手、指を使う人形浄瑠璃の供養塔に因み、右端にあるお教の塚を撫でながら念じる事で、才能が開花し、技芸が上達し、感性がゆたかになると云われています。お参りの皆様も、お力をいただいて下さい。合掌。
海龍寺の本堂の前設置の説明板に、文楽の墓、竹本弥太夫の墓があるとありましたので何処かなと思ったのですが、探すまでもなくすぐわかりました。なぜこのお寺に墓がと思いましたが、説明板を読んで、供養塔であることがわかり納得しました。
もう一つ小さな説明板には、お経の塚を撫でながら念じると芸や技が上達するとありましたが、もともとそういう才能に縁がなかったわたしですので、撮影だけにしました。
11.05.05裕・記編集

11.03.04撮影
広島県尾道市東久保町22-8 (海龍寺)

11.03.04撮影

11.03.04撮影

11.03.04撮影
大坂 文樂墓 大坂北新地 竹本弥太夫

11.03.04撮影
お教の塚 文政三(1820)庚辰(二)月十日     文化七(1810)午年七月十日



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