|
南区比治山公園の陸軍墓地に建立されている「独逸人墓碑」です。 |
このお墓は独逸軍人を弔ったものと聞きます。
墓標をみればOPAPE(よくよくみればO.PAPEとあります)という人で、1885年2月5日生まれで、1918(大正7)年3月18日に亡くなったと思われます。 |
※ |
画像でわかりますが、墓標前に設置されている(いまは字が薄くなり読めなくなった)説明板の碑文が陸軍墓地保存協賛会の資料でわかりました |
|
『このお墓は大正三(1914)年、日独戦役に於て広島市にて病没されたドイツ軍人を葬ったもので、爾来四十余年、広島市民に親しまれ、日本人墓地と供養を共にして居りますが、昭和二十(1945)年八月原爆のため破損しましたものを現在修復完了して居ります。』 昭和39(1964)年4月10日 比治山陸軍墓地保存協賛会 |
※ |
資料で、独逸・ヘッセン州カッセル市出身のオットー・パーペさんとわかりましたので追記しました。 |
|
第一次世界大戦で日本は1914(大正3)年8月23日にドイツ帝国へ宣戦を布告。
日本陸軍と英国軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊根拠地の中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略(青島の戦い、1914年10月31日
- 11月7日)。日本海軍は太平洋のドイツの植民地だった南洋諸島(マリアナ諸島とカロリン諸島、当時はドイツ領ニューギニアと呼ばれた)を攻略。ドイツ軍俘虜は青島で捕獲した約4,700名で、徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所など各地の収容所に送られたたそうで、広島では1917(大正6
)年2月19日ドイツ軍捕虜545名を大阪収容所から似島検疫所に転収容したそうです。
1918(大正7)年11月ドイツの降伏で同盟国側が敗北、翌(1919)年パリ講和会議でベルサイユ条約締結。 |
※広島では、1905(明治38)年1月似島検疫所に(日露戦争時の)ロシア軍俘虜収容所を開設、1920(大正9)年1月似島俘虜収容所を閉鎖。
|
関連頁:(裕編集の)(軍の島)似島略年表 |
戦時下、陸海軍とも国際法を厳しく守り、捕らえたドイツ軍俘虜は丁重に扱ったそうです。
(わたしは以前、TVのクイズ番組を見ているときにバウムクーヘンの日本での発祥地が広島だと知ったのです。)
日本で初めてバウムクーヘンを焼き上げたのは、カール・ユーハイムというドイツ人(洋菓子メーカー、ユーハイムの創始者)だそうです。中国で菓子店を営んでいたカールは、第一次大戦中、非戦闘員だったにもかかわらず捕虜になり、日本に送られ、広島の捕虜収容所に入った。1919(大正8)年広島の物産陳列館で行われたドイツ人捕虜による作品展示販売会にバウムクーヘンを出品、大成功をおさめます。第一次大戦後、日本に残ったカールと妻のエリーゼは、1921(大正10)年横浜に店を開きますが、1923年(大正12年)9月1日関東大震災で被災。神戸に移り、ユーハイム一号店をオープンしました。当時は「ピラミッドケーキ」と呼ばれていたバウムクーヘンは、1960年代に「バウムクーヘン」に改められ、今日に至っているそうです。 |
10.03.20更新 08.12.24裕・記編集 |