明治二十七・八年戰死者合骨・碑、明治三十三年清國事變戦歿者・碑

  南区比治山公園の陸軍墓地に建立されている
                   「明治二十七・八年戰死者合骨・碑、明治三十三年清國事變戦歿者・碑」です。
明治27・8年戦役:
(日清戦争)
1894(明治27)年8月から1895(明治28)年にかけて日本と清国の間で戦われた戦争。
朝鮮進出政策をとる日本は、宗主権を主張する清国と対立、甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国は朝鮮に出兵、日本軍は豊島沖で清国軍艦を攻撃し開戦に至った。日本軍は平壌・黄海・威海衛などで勝利し、1895(明治28)年4月、下関で講和条約締結。
戦死:1,417  病死:11,894人 負傷:3,973  
明治33年事変:
(義和団事件)
1899(明治32)年〜1900(明治33)年。列強の進出に抗した中国民衆の排外運動。山東に始まった義和団の運動が華北一帯に波及、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、日・英・米・露・独・仏・伊・墺(オーストリア)連合軍の出兵を招き、鎮圧された。北清事変。(義和団事変)。
陸軍墓地内に建立されている、日清戦争(明治27・28年戦役)戦没者の合骨碑と日本での呼称北清事変(明治33年戦役、事変)をこの戦没者慰霊碑では清国事変と刻んでいます。
日清戦争合骨・碑では115柱が祀られているようですが資料をみると日本全体で1万3千にも及ぶ方々がなくなっています、病死者が戦死者の≒8倍にも及んでいます。東区の饒津神社でみた「臨時陸軍検疫部職員死者追悼之碑」を思い出します、その碑文には「・・・外地から帰国する従軍者のために、臨時の検疫所が似島に設けられ、三ヶ月に232,346名、932,672点もの検疫をし、その間53名の方々が病気に感染して死亡されました。日本に病気等を入らせなかった業績は偉大なものとして後世に伝えるため碑を、明治28(1895)年10月31日建立。」とありましたので戦闘で亡くなるということもさるもの戦地での衛生管理の重要性を遅まきながら知ったものであろうと思いました。
  08.12.21 裕・記編集

08.12.11.撮影
広島市南区 比治山(ひじやま)公園 陸軍墓地内

08.12.11.撮影
、(手前)明治二十七・八年合骨・碑と(後ろ側)明治三十三年清國事變戦歿者・碑

08.11.15.撮影
明治27・28年戦死者115柱を葬った合骨・碑です

08.12.11.撮影



「軍都・廣島関連施設戦跡」編



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  明治二十七・八年合骨・碑、明治三十三年清國事變戦歿者・碑
(饒津神社)臨時陸軍検疫部・職員死者追悼之碑





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