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南区比治山公園の陸軍墓地に建立されている「船舶砲兵部隊慰霊碑」です。
※2018年8月22日学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈されたことを記述したこの慰霊碑の前で
はじめての慰霊祭が催されたことを報道で知りました。 |
碑文 昭和52(1977)年11月6日 船舶砲兵部隊慰霊碑建立会 |
かって日本陸軍に船舶砲兵部隊ありき太平洋戰争下輸送船に乗組み船員と一心同体となり南溟北斗
への劇烈なる輸送作戰に挺進せしも襲い来る敵潜敵機の猛攻に斃れ輸送船と共にわだつみ深く消えたる者数万を算う 又作戰準備のため比島に在りたる一部はその後ルソン攻防戰に突入し草むす屍となりて散華せり
今茲に當時を偲び亡き戰友船員の忠誠に敬意を捧げ不滅の勲功を讃えると共に墓標なき千尋の海に
名も知らぬ山河のほとりに眠るみたまの安らぎを祈り之を建立せり |
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『戦争中比治山には、陸軍船舶砲兵団(通称:暁部隊)の隊員1500名ほどが駐屯しており、1945(昭和20)年8月6日米軍投下の原爆の直撃を受け、何人もの戦友が重症を負い、また亡くなった。』と(現在平和記念公園に移植されている「被爆ハマユウ」を鎌倉の自宅に持ち帰り育てられた)同部隊の兵長だった尾島良平さんのことで、陸軍船舶砲兵隊のことをわずかですが知っていました。今(2008年12月)回この陸軍墓地に部隊としての慰霊碑が戦後30余年も経過した1977(昭和52)年に建立されたことを碑文を読んで知りました。 |
09.01.07 裕・記編集 |
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08.12.11.撮影 |
広島市南区 比治山(ひじやま)公園 陸軍墓地 |
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08.12.11.撮影 |
なき戰友船員のみたまよ安らかに眠れ |
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08.12.11.撮影 |
南無や大慈のみ光あびて |
大東亜戦争 |
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1944(昭和19)政府は奄美大島や徳之島、沖縄県の年寄り・子供・女性を島外へ疎開させる指示を出しました予定人数は、日本本土へ8万人、台湾に2万人の計10万人だったそうです。
1944(昭和19)年8月22日沖縄からの疎開者を乗せた「対馬丸(総屯数6,754屯)」は、鹿児島県・悪石島付近で米海軍潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け沈められました。このとき、乗船者約1800名のうち学童775名を含む1418名(氏名判明者数)が一瞬のうちに帰らぬ人となったそうです。 |
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資料は、沖縄県那覇市の対馬丸記念館の資料を参考にしました |
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08.12.11.撮影 |
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