長江会合同慰霊碑

  南区比治山公園の陸軍墓地に建立されている「長江会合同慰霊碑」です。
この合同慰霊碑は、昭和14(1939)年末から終戦に到る間に中国揚子江流域に駐留していた碑文に記される九つの部隊が揚子江流域やシベリアではたまた原爆によって戦傷病死した戦友の霊を慰めるために平成6(1994)年大同団結して長江会を結成し戦友有志の醵金と協賛者の寄付金をもって建立したものです。
故国を離れ数千里 諸霊は身を鴻毛の軽きにおき 若き命を国の為に捧げられました
時は滔々と流れ 五十年 この節目を期し 我々関係各部隊相集い 合同慰霊碑を建立し ご冥福を祈ります 希わくは安らかに眠り給わんことを
 平成7(1995)年3月吉日
第39師団(藤) 歩兵団 歩兵団 歩兵第231聯隊
第70師団(槍) 歩兵第61旅団 独立歩兵第102大隊
歩兵第62旅団 独立歩兵第121大隊
第64師団(開) 歩兵第69旅団 独立歩兵第131大隊
独立歩兵第5旅団(悟) 独立歩兵第207大隊
独立歩兵第209大隊
第132師団(振起) 歩兵第97旅団 独立歩兵第599大隊
独立歩兵第600大隊
独立混成第89旅団(至純) 独立歩兵第524大隊
陸軍墓地内に建立されている長江会合同慰霊碑は碑文によると2300余名の方々の慰霊の為に建立されたことがわかりました、その中には原爆で亡くなった方も含まれているようです。
 09.01.10 分離再編集   04.01.10裕・記編集

04.07.10.撮影
広島市南区 比治山(ひじやま)公園

08.12.11.撮影













 



 








 















 









 



 







 



 






 



 








 


 







 



 






















 








 



 






 




 





 



 







 


 






 


 





 



 







 




 







 



 


















 




 











03.09.24撮影
合同慰霊碑参拝ご案内
慰霊碑のあらましは由来碑に記していますが、関係部隊等の経緯について、ご案内いたします。昭和14(1939)年秋、歩兵231聯隊は編成間もなく、ここ聖地比治山々頂から望見出来る宇品港から、万里波涛を越え中国大陸に出征、精強部隊としてその功績は高く評価されていました。爾来戦火の拡大につれ、新編成の独立大隊(碑の裏面)が誕生し、兄弟部隊として大河・長江流域の各地に布陣し、戦闘、警備に当たりました。
昭和20(1945)年6月師団の関東軍転用に伴い、聯隊は警備地宣昌を振起部隊に託し緒戦以来多くの戦友の血潮で染めた湖北の山野に決別し北上を開始しました。然し戦況我に利あらず、満州国到着後、首都新京で終戦、将兵の殆どはシベリアの各地に抑留を余儀なくされました。
20代半ばの兵士が極寒凍土の果てで、祖国帰還を夢見ながら仆れたのは無念の極みです。数百余命に及ぶ犠牲者は、その殆どが、栄養失調と、これに起因する地底の炭坑作業によるもので痛恨至極です。
一方、長江沿いの各地で任務を遂行していた各独立大隊も、悪化する戦況に耐えつつ勇戦奮闘、武運拙く「草むす屍」と散華された数も少なくありません。また従軍半ばで帰国、本土防衛任務遂行中、原爆で亡くなった戦友等、慰霊碑には二千三百余命の霊をお祀りしています。
慰霊碑は平成7(1995)年3月に竣工したもので、関係各部隊(長江会)の有志の醵金と、これに協賛された各位の寄付金によるものです。
恒久平和を願う長江会は英霊の「不朽の功」を永久に伝え、戦友の真心が悠久長江の流れのよう、いつ迄も語り伝えられんことを祈念しています。
     ご参拝を感謝いたします               長江会
「慰霊」の文字は山口県禅昌寺のご住職の揮毫によるものです。また裏面の銅板に刻んだ「長江会鎮魂譜」は出征からシベリア抑留まで行を共にした231聯隊の一兵士より英霊の功を偲ぶすよすがにと寄せられたものです。



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