折本さんの被爆体験記

  中区猫屋町に過って開校していた光道国民学校(被爆当時憲兵隊が使用)で被爆した「折本さんの被爆体験記」です。
今(2009)年6月隣県にお住まいのYさんという方からメールをいただきました。
『・・・当時広島憲兵分隊に所属していた祖父は、「原爆被災説明板」中の土橋地区の説明板に写っている、光道国民学校で被爆しました。 当時の記憶は覚えている部分もあれば、被爆当時から記憶が飛んでしまってわからない部分もあり、また当人も原爆について積極的には話したり調べたりするタイプでもなかったので、広島市内に在住しながらも、こういった説明板を知らなかったようです。  現在闘病中で・・・・』という内容のメールでした。
わたしは土橋地区・原爆被災説明板の頁を編集する時「ヒロシマの被爆建造物は語る」を参考にしていましたが、その中の『・・・生存者は皆無だった』という記述は間違いであり訂正したいと思い、Yさんにお願いし、闘病中のおじい様にもう少し話を聞いていただけないかとお願いしました。下記の体験記、被爆当時の配置図の資料をいただきました。
2009(平成21)年7月29日(水)折本敏美さんが永眠されたと連絡がありました。ご冥福をお祈りいたします、合掌・・・
09.09.07更新   09.07.10裕・編集
(Yさんが聞き取ったおじい様の被爆体験、図もYさん作図)
旧大野町出身の祖父は下士官候補で東京の憲兵学校に入り、繰上げで1945(昭和20)年7月に卒業し、兵長として広島憲兵分隊に配属されました。20歳の時のことです。
疎開で生徒がいなくなった光道国民学校を憲兵隊が使用していました。祖父はその近くに下宿をしていたそうです。
配属後、ちょうど人事から「誰か廿日市憲兵分駐所に希望がないか」という話が出たため転属を希望し、それが通ったため、転属の申告(報告のことを、当時はこう表現していたそうです)をしたのが、1945(昭和20)年8月6日の朝でした。
(光道館の竣工も祖父の誕生日も、同じ1924(大正13)年9月です。この事を知ったのはごく最近のことですが、祖父は「同い年だから、校舎は自分を助けてくれたのかもしれない。」と驚いています。)
被爆時点で光道国民学校も築20年です。当時はモダンな建物で、真ん中の筒型の部分がちょうど職員室にあたる部屋で、憲兵隊が使用していた時は、その2階部分が隊長の部屋となっていたそうです。(この隊長については「下の名前は知らないが、田中隊長と呼んでいた」そうですが広島原爆戦災誌に田中要次大尉とあります)
祖父はその日の朝、その部屋で田中隊長に転属の申告をしました。
挨拶をすると隊長は祖父に「ちょうど今から、1階で不発爆弾の処理についての講義をするから、それを聞いていけ」と言ったので、祖父はその命に従い、1階に下りて講義が行われる部屋に入りました。(図参照)
隊長は、祖父より少し遅れて降りていきまました。
被爆後、憲兵隊の防空壕?に避難しました。 そこでお茶をもらったのですが、それを飲むと祖父は嘔吐してしまいました。 嘔吐物は黒いものだったそうです。 祖父と同様に、お茶を飲んだら吐いた人がこれまた数人いたそうです。 が、そのとき吐かなかった人は亡くなり、吐いた人が生き残ったようです。
この後終戦(8月15日)を迎え、一般兵は終戦をもって解散となりましたが、憲兵は終戦直後の整理で(一般兵の食料持ち逃げ等を取り締まるため)すぐには任を解かれず、9月25日(26日?)になって憲兵も解散となったそうです。 
また、被爆後数年は原爆症を患っていたようです。  祖父の被爆者手帳の爆心地からの距離の欄には、「 .5 km」と記載されています。  5km?そんなに遠かったっけ?と思いきや、よく見ると「 .5km」、コンマがありました。 つまり、爆心地から500m地点という認定を受けているようです。
参考資料
光道国民学校 爆心地からの距離 760m
所在地 中区猫屋町3-2 (被爆当時も猫屋町)
竣工時期 1924(大正13)年9月:広島光道学校
解体時期 1987(昭和62)年1月:光道会館
構造等 鉄筋コンクリート造。3階建
光道の由来 大無量寿経の一節「光闡道教(こうせんどうきょう)」の光道からきているそうです
1923(大正12)年に光道小学校と改称火災で、1924年RC造の校舎になる。
幼稚園を併設する、1学年1学級の(定員40名)男女共学だったそうです。



被爆者が描いた絵・碑など」編・全体



広島ぶらり散歩
土橋地区・原爆被災説明板 



「原爆被災説明板一覧」編





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