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1555(天文24)年5月、毛利元就は陶晴賢を討つために、厳島に戦場を求めここに城を築き拠点として、島の町衆を味方に引き入れ、陶軍の広島湾進出を阻止しようと軍備を整えました。この城は数個かに分かれた山城ですが、海上に突き出し、味方の水軍と連絡できる水軍城の特色も合わせて持っていました。
1555(天文24)年9月、陶晴賢は二万余の大軍を率い厳島に上陸し、五重塔がある塔の岡付近に本陣を置いてこの宮尾城を攻撃しましたが、三百余の城兵はよく守り持ちこたえました。
毛利元就は主力の軍を率い包ヶ浦から上陸して山を越え背後から陶軍本陣を急襲し、この城兵も主力軍に呼応して陶軍を壊滅しました。 |
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| 宮島桟橋からすぐにこの要害山が位置しています、厳島合戦時は三方が海であったというものの、こんなちぽけな山にあったという宮尾城を、2万とも3万とも云われた軍勢で攻め落とせなかった陶晴賢はある意味情けなく敗れるべくして敗れ去ったと、哀れに思ったわたしも知恵無い者だからそう思うのでしょうが・・・ |
| 08.01.29裕・記編集 |
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08.01.02撮影 |
| 広島県廿日市市宮島町浜之町要害山・宮尾城跡(を塔の岡よりみました) |
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07.11.03撮影 |
| 山辺の古径よりみました |
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07.10.06撮影 |

07.10.08撮影 |
| 説明版と陶軍が本陣を置いた塔の岡をみました |
要害山山頂 |
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08.01.02撮影 |

08.01.02撮影 |
| 海上からの補給のために毛利軍が造ったといわれる要害山の掘割 |
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| 要害山に築いた宮尾城(毛利軍)と塔の岡(陶軍本陣) 地図は説明版のものを使用 |
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