(要害山) 宮尾城跡
  廿日市市宮島町浜之町の要害山(宮尾城跡)をこの頁で取り上げました。
1555(天文24)年5月、毛利元就(1497-1571)は陶晴賢(1521-1555)を討つために、厳島に戦場を求めここに城を築き拠点として、島の町衆を味方に引き入れ、陶軍の広島湾進出を阻止しようと軍備を整えました。
この城(宮尾城)は数個かに分かれた山城ですが、海上に突き出し、味方の水軍と連絡できる水軍城の特色も合わせて持っていました。
1555(天文24)年9月、陶晴賢は二万余の大軍を率い厳島に上陸し、五重塔がある塔の岡付近に本陣を置いてこの宮尾城を攻撃しましたが、三百余の城兵はよく守り持ちこたえました。
毛利元就は主力の軍を率い包ヶ浦から上陸して山を越え背後から陶軍本陣を急襲し、この城兵も主力軍に呼応して陶軍を壊滅しました。
厳島合戦(いつくしまかっせん)、厳島の戦い(いつくしまのたたかい)ともいう
1555(天文24)年、主君大内義隆(1507-1551)を殺して領国を奪った陶晴賢(すえはるかた:1521-1555)を毛利元就(もとなり:1497-1571)が厳島に敗死させた戦い。
毛利氏発展の基となりました。
陶軍兵力は2万とも3万ともいわれ、毛利軍兵力は4千から5千ともいわれています。
宮島桟橋からすぐにこの要害山が位置しています。
厳島合戦当時は三方が海であったというものの、こんなちぽけな山にあったという宮尾城を、2万とも3万とも云われた軍勢で攻め落とせなかった陶晴賢はある意味情けなく、厳島合戦で敗れるべくして敗れ去ったと、哀れに思ったわたしも知恵無い者だからそう思うのでしょうね。
2008年この頁を編集しました。
2012年桟橋広場からこの要害山に上る階段を撮影していましたので、掲載の画像を見直し再編集しました。
15.07.22.再編集    08.01.29裕・記編集

07.10.06撮影
広島県廿日市市宮島町浜之町要害山・宮尾城跡(から陶軍が本陣を置いた塔の岡をみました)

07.10.08撮影
要害山山頂 (現在はあずまやが設置されています)

07.11.03撮影
山辺の古径より要害山・宮尾城跡をみました

12.10.20.撮影

08.01.02撮影
要害山・宮尾城跡(を塔の岡よりみました)

08.01.02撮影
海上からの補給のために毛利軍が造ったといわれる要害山の掘割

08.01.02撮影

08.01.02撮影

12.05.01.撮影
宮島桟橋広場から要害山をみました(階段を上って行きます)

12.05.01.撮影
宮島桟橋広場その後ろの要害山をみました



「安芸の宮島」編



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(厳島合戦関連頁)
厳島合戦(概論)
(要害山)宮尾城跡
塔の岡(陶軍本陣)
瀧小路の戦い(弘中戦地)
大元浦(陶晴賢上陸の地)
勝山城跡(陶軍最初の本陣地)
血仏池
包ヶ浦(毛利元就上陸の地)
(廿日市)桜尾城址
(廿日市)火立岩跡
(廿日市)陶晴賢の墓
(五日市海老山)三十人塚


「古墳遺跡遺構など」編





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