瀧小路の戦い (弘中戦地)
  廿日市市宮島町滝町で行われた厳島合戦の中の「瀧小路の戦い」をこの頁で取り上げました。
知勇を持って知られていた陶晴賢の重臣・弘中隆包は厳島合戦の前に「この狭い島を戦場にするのは陶の大軍にとっては不利だ。」と主君・陶晴賢を諌めましたが受け入れられず、やむなくその子中務小輔とともに合戦に加わりました。
1555(天文24)年10月1日早朝、毛利軍の奇襲を受けた陶軍は壊滅状態に陥りました。
弘中父子は陶晴賢を西方の大元浦に退かせ、瀧小路(現在の滝町)を背にして毛利元就の二男・吉川元春率いる軍勢を防ぎましたが、支えきれず左右の民家に火を放ち大聖院から駒ヶ林(龍ヶ馬場)へ退きました。
このとき吉川元春は「弘中を逃しても、神殿を焼かすな!」と命じたと云われています。
毛利元就父子の篤い敬神の念により、厳島神社は危うく火災から守られました。
厳島合戦のことを調べるまでこの道(小路)で戦いがあったことなどは知らずに歩いていました。
陶軍が、逃げるために火を放ち、それを必死に消し止める毛利軍のことなど想像はできない今のたたずまいではあるのです。
今回この頁を編集するために撮影しましたが、なおそんな歴史があったのかと思っているのです。
        08.04.07更新   08.01.31裕・記編集

08.01.02撮影
広島県廿日市市宮島町滝町

08.02.14撮影
滝小路から大聖院をみました

08.02.14撮影
滝小路から厳島神社側をみました

08.01.02撮影
滝小路からもみじ歩道に入ったところに説明版が設置されています
塔の岡から退いた陶軍(弘中たち)は滝小路、大聖院から駒ヶ林へ    地図は説明版のものを使用



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