大元浦 (陶晴賢上陸の地)
  廿日市市宮島町西大西町の大元浦(陶晴賢上陸の地)をこの頁では取り上げました。
1554(天文23)年厳島合戦の前哨戦ともいえる「折敷畑の戦い」(廿日市市)に敗れた陶晴賢は、毛利元就と厳島で雌雄を決するため、翌(1555)年9月20日、岩国から二万余の大軍を率いて、この大元浦に上陸しました。
陶晴賢は、多宝塔付近から五重塔のある“塔の岡”へ本陣を移し、宮尾城を攻撃するなどして毛利元就を迎え討とうとしました。
しかし、10月1日早朝、毛利元就の奇襲を受けた陶軍は壊滅状態に陥り、再び大元浦へ戻り敗走しました。
陶晴賢も三浦房清らわずかな手勢とともに大元浦に逃れ、本拠地の山口で再起を図ろうと島から脱出を試みましたが、乗る船もなくさらに西方へ逃れ、もはやこれまでと山中で自刃しました。
宮島水族館に行ったことはあるのですが、そのすぐ先のここ大元浦まで足を伸ばしたことがなかったのです。大元神社への参道の前に「厳島合戦跡・大元浦」の大きな説明版でこの地の関りを少しばかり知ったのでした。この説明版を読んでから、この先の大元神社へそして足を伸ばし血佛池を観られることをお勧めします。
大元浦というのに海の画像を掲載していませんでしたので、2008年冬撮影したのですが掲載をしていませんでしたので、今になりましたが追加しました。
09.11.03画像追加  08.02.01裕・記編集

07.11.03撮影
広島県廿日市市宮島町西大西町(大元園地)

07.11.03撮影
毛利元就ゆかりの地 厳島合戦跡 大元浦    説明版

08.02.14撮影
毛利元就ゆかりの地 厳島合戦跡 大元浦

08.02.14撮影
1555(天文24)年、主君大内義隆を殺して領国を奪った陶晴賢(すえはるかた)を毛利元就(もとなり)が厳島に敗死させた戦い。毛利氏発展の基となりました。
陶軍兵力は2万とも3万ともいわれ、毛利軍兵力は4千から5千といわれています。



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