とうのおか
塔の岡
  廿日市市宮島町の「塔の岡」をこの頁で取り上げました。
※1407(応永14)年建立された(金剛院の)五重塔があることから“塔の岡”と呼ばれるようになったそうです。
五重の塔があるのでこの丘を塔の岡といいます。
毛利元就(1497-1571)が、陶晴賢(1521-1555)を襲撃した厳島合戦の古戦場でもあるのです。
1555(天文24)年9月21日陶晴賢は大軍を率いて厳島に上陸し、ここ塔の岡に本陣を構え、毛利方の宮尾城を攻撃しました。
毛利元就は9月30日夜暴風雨をついて包ヶ浦に上陸。
翌朝未明博奕尾(ばくちお)を越えて襲い掛かりました。陶軍は不意をつかれて大敗しました。
この合戦で内海地域の制海権は。毛利氏の手に移りました。
塔の岡を上から見ると亀のような姿にみえるから亀居山ともいわれています、わたしは何度ここに立つてみても、(厳島合戦の時には勿論千畳閣はありませんでしたが)この小さな丘周辺に2万とも3万ともいわれる陶軍の兵士がいたのかと思うのです・・それほど狭い地区なのです。宮島歴史民俗資料館の模型でもわかりますが陶軍の兵士であふれていただろな〜〜と・・・・
08.01.30裕・記編集

08.01.02撮影
広島県廿日市市宮島町塔の岡(を宮尾城跡の要害山よりみました)

07.11.03撮影
塔の岡(の説明版)から要害山方向をみました  (並んであるのは)誓真大徳碑への道案内板

07.12.15撮影
最初に陶晴賢が本陣を敷いた多宝が岡から塔の岡をみました(要害山は見えにくい位置です)。
眼下は厳島神社。

07.11.03撮影
左:大鳥居  手前:多宝塔  五重塔 その向こうに要害山がみえます
厳島合戦(いつくしまかっせん)、厳島の戦い(いつくしまのたたかい)ともいう
1555(天文24)年、主君大内義隆を殺して領国を奪った陶晴賢(すえはるかた)を毛利元就(もとなり)が厳島に敗死させた戦い。毛利氏発展の基となる。陶軍兵力は2万とも3万ともいわれ、毛利軍兵力は4千から5千といわれています。



「安芸の宮島」編


厳島合戦編



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(厳島合戦関連頁)
厳島合戦(概論)
(要害山)宮尾城跡
塔の岡(陶軍本陣)
瀧小路の戦い(弘中戦地)
大元浦(陶晴賢上陸の地)
勝山城跡(陶軍最初の本陣地)
血仏池
包ヶ浦(毛利元就上陸の地)
(廿日市)桜尾城址
(廿日市)火立岩跡
(廿日市)陶晴賢の墓
(五日市海老山)三十人塚


「古墳遺跡遺構など」編





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