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1555(天文24)年9月30日の夜半、毛利元就は長男・隆元、二男・吉川元春以下3500余の本軍を率い、折からの暴風雨と夜陰をついて対岸の地御前火立岩(廿日市市)から、塔の岡に本陣を置く陶晴賢に奇襲をかけるためこの地に亥の刻(午後10時)上陸し、直ちに水軍の将・児玉就方(なりかた:1513-1586)に命じ兵舟を全て帰し「我今九死に一生の戦に臨む、もし利なければ即ち死あるのみ!」と文字通りの背水の陣を敷きました。また、この浦の名を「包ヶ浦}と聞いて、「鼓はうつべきもの、もはや敵は討たれたも同然」と将兵を励ましたと云われています。
翌10月1日未明、毛利元就は目前の山を越え陶軍の背後にある博奕尾に登り、早朝一気に山を下り、陶軍の本陣を急襲しました。 |
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| この包ヶ浦に子どもたちを連れて海水浴に来たことが何度かありますが、毛利元就上陸の地碑が建立されていることは資料を見るまで知らなかったのです、そこで今(2008)年正月2日厳島神社へ初詣をした後、杉の浦からこの包ヶ浦にぶらり散歩して来たのです、さすがに冬、カレイでも釣っているのか釣り人が2人だけの包ヶ浦でした。 |
| 08.02.03裕・記編集 |
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08.01.02撮影 |
| 広島県廿日市市宮島町(包ヶ浦) |
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08.01.02撮影 |
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08.01.02撮影 |
| 毛利元就上陸の碑から瀬戸内海をみました(遠く広島市内がみてます) |
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| (説明版の地図を使用しています) |
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赤:陶軍(敗走経路) 緑:毛利軍(奇襲など経路) 黄:(当時の)道路 |
| 厳島合戦(いつくしまかっせん)、厳島の戦い(いつくしまのたたかい)ともいう |
| 1555(天文24)年、主君大内義隆を殺して領国を奪った陶晴賢(すえはるかた)を毛利元就(もとなり)が厳島に敗死させた戦い。毛利氏発展の基となる。陶軍兵力は2万とも3万ともいわれ、毛利軍兵力は4千から5千といわれています。 |
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