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廿日市市宮島町包ヶ浦に建立されている「毛利元就上陸之跡・碑」です。 |
碑表面: |
毛利元就上陸之跡
昭和十六年三月 廣島陸軍兵器補給廠長 岡田■■ |
昭和16年=1941年 |
碑裏面: |
(記述なし) |
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1555(天文24)年9月30日の夜半、毛利元就は長男・隆元(1523-1563)、二男・吉川元春(1530-1586)以下3500余の本軍を率い、折からの暴風雨と夜陰をついて対岸の地御前火立岩(廿日市市)から、塔の岡に本陣を置く陶晴賢に奇襲をかけるためこの地に亥の刻(午後10時)上陸し、直ちに水軍の将・児玉就方(なりかた:1513-1586)に命じ兵舟を全て帰し「我今九死に一生の戦に臨む、もし利なければ即ち死あるのみ!」と文字通りの背水の陣を敷きました。
また、この浦の名を「包ヶ浦}と聞いて、「鼓はうつべきもの、もはや敵は討たれたも同然」と将兵を励ましたと云われています。
翌10月1日未明、毛利元就は目前の山を越え陶軍の背後にある博奕尾に登り、早朝一気に山を下り、陶軍の本陣を急襲しました。 |
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厳島合戦(いつくしまかっせん)、厳島の戦い(いつくしまのたたかい)ともいう |
1555(天文24)年、主君大内義隆(1507-1551)を殺して領国を奪った陶晴賢(すえはるかた:1521-1555)を毛利元就(もとなり:1497-1571)が厳島に敗死させた戦い。
毛利氏発展の基となる。陶軍兵力は2万とも3万ともいわれ、毛利軍兵力は4千から5千ともいわれています。 |
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この包ヶ浦に子どもたちを連れて海水浴に来たことが何度かありますが、毛利元就上陸の地碑が建立されていることは資料を見るまで知らなかったのです。
2008年正月2日厳島神社へ初詣をした後、杉の浦からこの包ヶ浦にぶらり散歩して来たのです。さすがに冬、カレイでも釣っているのか釣り人が2人だけの包ヶ浦でした。上陸の地・碑を中心に撮影してこの頁を編集しました。
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※ |
2012年この碑の建立日、建立者に関してわからないかと碑に近づいてみました。
戦後に建立されたものだろうと何となく思っていましたが、「廣島陸軍兵器補給廠長」と読めました。
碑に彫られた昭和の昭が消え(かかって)ているようでしたが“和十六年”で揮毫者が兵器補給廠長 姓は岡田かなと思いましたが名の方はわたしには読めませんでした。 |
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「毛利元就上陸之跡」碑の揮毫者が陸軍兵器補給廠長ということは、陸軍兵器補給廠と宮島になにがしかのつながりがあるのではと考えました。
廣島ぶらり散歩「軍都廣島関連」編を編集していますので、包ヶ浦→杉之浦に行く途中防空壕に進入できないように壁を造っている処に出合いましたが、陸軍と少しばかり関わりがあるのかなと思ったのです。 |
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1887 |
明治30年 |
基町に大阪砲兵工廠広島派出所設置されました。 |
1905 |
明治38年 |
広島陸軍兵器支廠に昇格。 |
1940 |
昭和15年 |
陸軍兵器補給廠に改称。 |
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2012年(わたしは)毛利軍が進軍した反対側厳島神社→博打尾→包ヶ浦へとぶらり散歩しました。 |
2015年のいまになりましたが、この頁を再編集しました。 |
15.07.25.再編集 08.02.03裕・記編集 |