腔血報国」碑
  廿日市市宮島町に建立されている「腔血報国」碑です。
西南戦争で熊本城(熊本鎮台)の官軍危うしの報で各地で旧士族を含む壮丁(そうてい)が募集され、官軍救援に送り出され、広島でも約1000名の壮丁を集め「遊撃歩兵第八大隊」を組織(隊長:加藤種之助中尉)して第一旅団:司令長官・野津鎮雄陸軍少将麾下に入り待機していました。
薩軍が可愛岳(標高728m)の険を越えてくることはないと安心して休養していた所を強襲され官軍の損害おびただしく(資料によっては食糧米2500表、現金8000円を残して)逃走しました。
その中に広島編成の「遊撃歩兵第八大隊」も不意を討たれ大損害を蒙りました。その時の、戦死者、負傷者のお名前を刻んだ追悼の碑のようです。
関連頁:(広島の明星院に建立)加藤種之助墓碑
(せいなんせんそう)
西南戦争:
1877(明治10)年西郷隆盛(1827-1877)を中心とする鹿児島士族の反乱。
征韓論により下野した西郷は帰郷して私学校を興したが、その生徒が西郷を擁して挙兵、熊本鎮台を包囲したが、政府軍に鎮圧され、西郷らの指導者は多く自刃した。
官軍死者6,403人、薩(西郷)軍死者6,765人。明治初年の士族反乱のうち最大で最後のもの。以後の反政府運動の中心は自由民権運動に移る。西南の役。
(えのだけ とつい)
可愛岳突囲:
1877(明治10)年8月15日、和田越の決戦に敗れた薩(西郷)軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた。
8月16日、西郷は解軍の令を出す程の薩軍は窮迫し、降伏するもの相次ぎ、精鋭のみ1,000名程が残り、一度は決戦と決したが、再起を期し、選択に迫られた首脳は8月17日午後4時、官軍の長井包囲網を脱するため、遂に可愛岳突破を決意しました。突破の隊編成として、前軍に河野主一郎・辺見、中軍に桐野・村田新八、後軍に中島・貴島をおき、池上・別府晋介は約60名を率いて西郷を護衛しました。
この時の突囲軍は精鋭300〜500でした。同(17)日夜10時に児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始め、翌(18)日早朝、可愛岳の頂上に到着し、ここから、薩軍は辺見を先鋒に一斉に下山攻撃を開始しました。不意を衝かれた官軍の第一・第二旅団は総崩れとなり、退却を余儀なくされました。このため薩軍は、その地にあった官軍の食糧、弾薬3万発、砲一門を奪うことに成功したそうです。
広島には広島鎮台が置かれていましたので、その本隊も西南戦争に出陣していたのです。
1877(明治10)年2月から征討第3旅団隷下として西南戦争に出征。戦中の4月に川村景明が陸軍少佐に進み歩兵第11連隊大隊長となっています。
厳島神社への入口に行かずに少しばかり参道を進んだ左手に建立されている石碑です。
以前よりこの碑を見てきていましたが碑銘から読めなかったのです、「腔空報国」かと思ったのですが辞書を引いても腔空という言葉はありませんでしたので、不明のまま時間が経過していたのです。
広島郷土史研究発行「廣島史蹟名勝絵日記」をみているときにこの碑が「腔血報国」という石碑であることが掲載してあったのです。
そして『西南役可愛嶽で苦戦した遊撃歩兵第八大隊の腔血報国碑』と掲載があったのです。腔血という碑銘かと思ったこともあったのですが、腔血という言葉は辞書にはなく医学用語のようで、明治18(1885)年建立の石碑にはふさわしくないと(浅はかなわたしは)切り捨てていたのです。
08.04.03裕・記編集

08.06.14.撮影
広島県廿日市市宮島町

08.06.14.撮影
國報血腔 明治十八年四月 陸軍中将從四位勲二等子爵谷干城撰
こう
1.体内の空虚な部分 2.ひばら。横ばら 3.物の中のうつろ 4.歌のふしまわし

08.06.14.撮影



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