(厳島神社)御鎮座伝説

  廿日市市宮島町に鎮座している厳島神社については次のような「御鎮座伝説」もあります。
福岡県玄海町鎮座宗像大社の御祭神は厳島神社と同様で、宗像大社の伝説に「湍津姫命」は豊前の宇佐に、「市杵島姫命」は安芸に御遷座のなったとあります。
厳島神社の伝説では、最初の御鎮座地が豊田郡瀬戸田島の志加田原であり、更にここから豊田郡大崎島に御遷りなり奈加の村、加牟の峯に御遷座があり同(大崎)島の七浦を御巡幸され、その所々に御宮を造営されたこれを「七浦行者(のかりのみや)」といいました。しかし、ここも御神慮に適わなかったから、更に安芸の島々を御巡行になり、最後に大竹市大竹浦に到り給いそこから厳島を御覧になって「あそここそ吉い所だ。永久に鎮まろう」と仰せになり、はじめて御鎮座地が定まったと伝えられています。
宗像伝説に云う安芸への御遷座は、宇佐から伊予に、そして瀬戸田ということなのでしょう。
資料は、厳島神社社務所発行「伊都岐嶋」を参考にしました。
伝説は語る人により、また時代により変化してくるものかもしれませんが、厳島(宮島)に関わる伝説をみてきていましたが、厳島神社に伝わるものを見なくてはと思っていたのです。
ここで取り上げる4つの伝説は厳島神社社務所、昭和51(1976)年11月1日初版発行、平成7(1995)年12月20日改訂版の「伊都岐嶋」を参考にしています。
08.01.10裕・記編集

07.10.06撮影
広島県廿日市市宮島町 (大鳥居を厳島神社・平舞台からみる)
その他の伝説その一
神武天皇の東征の途次、厳島に立ち寄られ、しばらく御滞在になり、この間御祭神と同殿共床であった。
これは風波を避けるためと兵員の休養などの為だったと伝わっています。
その他の伝説その二
安芸の国に佐伯鞍職(くらもと)という者がいた。ではじまる伝説でわたしのこのHPでも取り上げている「厳島縁起」と大筋は同じです。しかし、御殿の造営が朝廷から許されてからが「厳島神社縁起」にはありませんので。
  久良茂止は新しい船を造り、姫神様を御移しし、島を右に見ながら巡りはじめ御神慮に適う所を伺うと「私が高天原から連れて来た烏が案内するだろう」と・・・久良茂止は途々御祓いをしながら聖崎を過ぎ「姥ヶ懐」「弥七ヶ谷」を過ぎて「杉の浦」に到り此処で先ず御祓いをした。
御祓いをした此の浦に「底津少童命」を祀った「末社 杉之浦神社」がある。此処を過ぎて「包ヶ浦」湾を横切る。
東の湾口に巨大な岩があり「塩土翁」を祀った「末社 包ヶ浦神社」があるが久良茂止が御祭神の御供をした時の御祓いには関係はないらしい。
包ヶ浦から「献(こん)ヶ浦」の千献違石(せんごんいわ)を過ぎると鷹巣浦でここでも御祓いをし、「底筒男命」をお祀りした「末社 鷹巣浦神社」がある(いまは鎮座地が変わっているがもとは白砂青松の地であった)。
次に腰少浦で御祓いがあり「中津少童命」を祀った「末社 腰少浦神社」がある。
次に青海苔浦に到り御祓いがあり「中筒男命」を祀った「末社 青海苔浦神社」がある。
すでに島を半ば以上巡ることになったが御烏は現れないので久良茂止は粢団子(しとぎだんご)を作ってお供えしお祈りすると御山から一双の御烏が飛来し粢団子を咋え、更に進むのでそれに従って行きました。
そして、山白浜で御祓いがあった。「表津少童命」を祀る「末社 山白浜神社」がある。
次は須屋浦で御祓いがあった。「表筒男命」を祀った「末社 須屋浦神社がある。
(須屋浦から下谷(しただに)を通れば御床浦となり、久良茂止が勅許を得る前、御祭神を仮に御遷ししたところで、一大岩盤の上に御鎮座になっているのが現在の「末社 御床神社」です)
更に御烏の後に従い進んだ。
鳥翔(とかけ)村和幾の浦に来た時、御烏の姿が見えなくなった。すると御祭神が「私は此所が御殿を造るに良い所だと思う。お前も同感ならば此処に御殿を造れ」と仰せられました。それが今の御神殿の位置で、推古天皇御即位の年(593)11月初申の日の御鎮座と伝わっています。
☆佐伯鞍職は「私は佐倍岐の久良茂止といい、開闢のときからこの島に居住する島の神」と姫神様に答えています。
☆鞍職の部下は姫神様の問いに「私は所の者」ですと答えています、「所」というのは「この付近の者」という意味です。
すぎのうら
杉之浦神社
たかのすうら
鷹巣浦神社
こしぼそうら
腰少(細)浦神社
あおのりうら
青海苔浦神社
やましろはま
山白浜神社
すやうら
須屋浦神社
みとこ
御床神社
その他の伝説その三
  平城天皇の大同二(807)年、空海が唐からの帰途この島に立ち寄り御山で求聞持を修しそこに求聞持堂を建てまた大日堂を建てました。寺号を神護寺といいいます。
厳島神社の別当寺は大聖院ですが(だったのですが)、開基は不詳です、恐らく御山の大日堂を山下に移したものでしょう。滝山、水精寺と山号と寺号がありますが、御山の大日堂の東に毘沙門堂があり、その山号が彌山で、寺号が水精寺です。今の大聖院の山号は白糸の滝の前にあるから「滝山」としたとおもわれますが、寺号はこの毘沙門堂のものと思われます。
むなかたじんじゃ
宗像神社
福岡県宗像郡にある辺津(へつ)宮(玄海町田島に鎮座)・中津宮(大島村に鎮座)・沖津宮(大島村沖ノ島に鎮座)の三宮の総称。祭神は湍津姫命・市杵島姫命・田心姫命。
海上交通の要衝にあり、古くから朝野(朝廷と民間)の信仰が厚い。宗像大社。
じんむてんのう
神武天皇
記紀所伝の第一代天皇、神日本磐余彦天皇(かんやまといわれ)(びこのすめらみこと)の漢風諡号。ひこなぎさたけうがやふきあえずのみことの第四皇子。
九州日向(ひむか)から東進して大和地方を平定、紀元前660年(皇紀元年)、大和の橿原宮で即位したという。
すいこてんのう
推古天皇
(554-628)
記紀で第三十三代天皇(在位 592-628)の漢風諡号。名は額田部(ぬかたべ)。豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)とも。欽明天皇第三皇女。敏達天皇の皇后。
崇峻天皇(すしゅんてんのう:?-592)が蘇我馬子(?-626)に殺されると、推されて即位。聖徳太子(574-622)を皇太子・摂政として政治を行い、飛鳥文化を現出。
くうかい
空海
(774-835)
平安初期の僧。日本の真言宗の開祖。諡号は弘法大師。讃岐の人。
804年最澄らとともに入唐し、長安の青竜寺恵果(けいか)に学ぶ。
806年帰朝して高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)を開く。嵯峨天皇より東寺(教王護国寺)を賜り、その翌年には大僧都に任ぜられた。日本最初の庶民学校である綜芸種智院(しゆげいしゆちいん)を設立。
書にすぐれ三筆(空海・橘逸勢・嵯峨天皇)の一人にあげられ、「風信帖」などの名品がある。また、詩文にも秀でた。後世、広く庶民信仰の対象として尊ばれた。
著「三教指帰(さんごうしいき)」「十住心論」「弁顕密二教論」「性霊(しようりよう)集」「文鏡秘府論」「篆隷(てんれい)万象名義」ほか。
さえきのくらもと
佐伯鞍職
(生年没年不明)
大和時代の安芸の豪族である。厳島に住む佐伯部の有力者であったとされる。
推古元(593)年、市杵嶋姫命の神託により厳島神社を創建し、初代神主となった。以後安芸国造佐伯氏が代々神主を務める。一次藤原家に神主職を奪われるが、藤原神主家が滅亡すると再び佐伯氏が務め、世襲により現代に至る。
没後、三翁神社、金刀比羅神社に神として祀られる。



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