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廿日市市宮島町の厳島神社境内に架けられている「反橋」です。
※反橋の解体修理が、2014年12月19日に完了したと新聞報道で知りました。(以後は別頁) |
反橋:擬宝珠高欄付、長さ十一間三尺(≒20.6m)、幅二間二尺(≒4.0m)。
朝廷からの勅使(ちょくし)が参拝する際、海が荒れたときに、この橋を渡って本殿へ向かったといわれています。 |
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そのようなことで「勅使橋」とも呼ばれているそうです。
実際に使用する時は、そのままでは通行できないので、仮設の階段をセットを使用して通行したそうです。 |
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現在の反橋は、1557(弘治3)年毛利元就(1497-1571)・隆元(1523-1563)親子によって再建されたものです。
明治32(1899)年4月5日国指定の重要文化財。 |
※解説資料は、広島県教育委員会の資料を参考にしました |
資料によると現在の反橋の前は、御手洗川を越える規模であったそうですから今の倍の規模の反橋だったようです。
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現在の(反橋の)擬宝珠高欄には「奉造栄安芸之国厳島曽利橋一宇木帽子四、丹那吉田住人毛利屋形大江朝臣隆元、元就為子孫繁昌息・・・・・弘治三年卯月吉日大願寺円海」とあるそうです。
反り具合が急なので現状のままでは渡ることができないなと思っていたら、使用時には専用の階段があったようです。現在は立ち入り禁止となっています。 |
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2014年12月20日中國新聞の報道で、
『昨(2013)年1月から反橋の解体修理に着手し、2014年12月19日に完了した。解体修理は日光や潮風で傷んだ踏み板や橋脚を手作業で新調・修理して組み上げた。前回解体修理は、1911(明治44)年以来だったそうです。』 |
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今(2008)年厳島神社本社への初詣が終わり回廊を回って帰ろうとしたときに頁を編集した時に読んだ擬宝珠高欄に「弘治三(1557:戦国時代)年」と刻まれているとあったので、女房に自慢げに話して反橋に近づき高欄をみたのです、しかしどう見ても弘治ではなく江戸時代の文化九(1812)年と刻まれていました、壊れて交換されたのかもしれないと云って言訳をしながら撮影しましたが、柵があり全部の擬宝珠高欄をみることができませんがどこかにそう刻まれた擬宝珠高欄があるのでしょう。知ったかぶりするものではなかったな〜と。 |
2013年2月中國新聞報道で知ったこの反橋の解体修理が2014年12月19日完了したという記事をみましたので、追記しました。2015年になり別頁で編集しました。 |
14.12.20更新 07.11.07裕・記編集 |