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廿日市市宮島町大町にあった“神泉寺”でしたが、いまは「神泉寺跡」碑でここだったのかと知ることしかできなくなっています。 |
(光明院の西側上)小高い丘に、神泉寺跡の石碑が宮島町当時町によって建立されています。
昼夜「刻(とき)」を報じたので、「時寺とも呼ばれていました。二位の尼(平時子)の屍が有の浦に漂着したので、阿弥陀堂を建てた旨が「房顕覚書」に記されており二位の尼の木像を祀り、位牌もあったが、神泉寺が廃された後、それらは光明院に移されました。
江戸時代安永期(1772-1780)、天明期(1781-1788)のころに住職であった了単上人の門弟に「誓真(1742-1800)大徳」がいました。元来器用な人であったようで、修行の間に作った木魚が精巧なものでした。
当時、島内に産業らしきものがなかったので、自ら松で飯杓子を作り島民に教え島の名産になりました。このほかにも井戸を10本掘ったりしました。 |
※解説資料は、厳島神社社務所発行「伊都岐嶋」などを参考にしました。 |
広島市内の浄国寺で誓真さんのお墓を知り、誓真さんを調べているときに神泉寺の番僧をしていたが、神泉寺はいまは廃寺になっていると知りました。しかし、どこにお寺があるのかは知りませんでしたが、今(2007年)回交流ウォーク関連で教えていただき撮影しました。 |
08.01.12裕・記編集 |