(宮島の)大束富くじ場跡・碑

  廿日市市宮島町上西連町に宮島町によって建立されている「大束富くじ場跡・碑」です。
宮島では元禄年間から毎年5回〜6回位市立て(宮島では焚木の大束が特産品で、これを入札するという形での富籤)の興行という形で行われていたそうです。
大束(だいそく)とは 一尺二寸又は一尺五寸の定寸に切った割木の束のことだったようです。
また、当たった者はこの宮島島内で使い果たさないと神罰が下ると云われていたようです。
江戸幕府は一部を除いて富くじ興行を禁じ、何度か禁令を出していますが、実際には各地で行われていました。
広島藩もその例外ではなく藩内の各地でしばしば富くじが行われていました。有名なのは宮島・尾道・三次・御手洗・帝釈などでした。
宮島での富くじ興行は藩が主体となり行われておりその収益は藩の収入になる仕組みであったようです。
富くじの仕組み(今の宝くじとは仕組みが異なっていました)
1.合鑑紙と木駒を買う(一口十匁)
2.合鑑紙に何か識別のための文言を書き入れ、検印を受けた後購入者が所持する
3.主催者側で同じ文言を木駒に書き写す
4.木駒を集めて桶に入れ、公開の場で錐(きり)で突く
5.主催者が突き上げられた木駒の文言を読み上げ、
   同じ文言が書いてある合鑑紙を持っている者が当りと判明する
6.売り上げの5%は藩の収入になる
広島藩で行われていた富くじは、禁制であることを憚って、物品の入札という見かけを装っていました。
宮島では大束(薪の意味)、尾道は畳表、三次では麻苧(あさお)、帝釈では多葉粉(煙草)でした。
※広島県立公文書館の広島の富くじの資料他を参考にしました。
宮島商工会発行の「宮島の案内絵図」にも記載があるこの石碑を、交流ウォーク探検隊で訪ねました。
「大束」の読み方とその意味がわかりませんでしたので、この跡碑の横を歩いておられたお年寄りにお聞きしたのですが「わからない」という返事でした。
また一服ということで町家通りにある有名なみやげ物兼喫茶店に入った時注文を取りにきた店主にも聞いたのですが、(わからなかったのでしょう)話題を逸らされてしまいました(わからないことは多いと思うのでわからないならわからない調べておくと云うのが落語にならない普通の反応と思えてなりませんでしたので)。喉につかえた小骨になってしまいました。
この頁を編集しようと調べていると、広島県立公文書館収蔵の資料展で、富くじのことが少しばかりわかりました。
08.02.15裕・記編集

07.11.03.撮影
広島県廿日市市宮島町上西連町

07.11.03.撮影
大束富くじ(富籤)場跡 昭和50(1975)年宮島町により建立



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