ないしいわ
(宮島の) 内侍岩
  廿日市市宮島町室浜にある“内侍岩”(と呼ばれている岩に)に関わる伝承をこの頁で取り上げました。
徳大寺左大将実定卿(藤原定家の従兄弟)が大納言だった頃、(平家の全盛期で)実定の昇進願望は満たされることがなく、その不遇期間を和歌の道に没入しました。
「ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる」(「千載和歌集」夏161)は百人一首に入っています。
治承3(1179)年3月実定は、厳島神社へ参詣、内侍と呼ばれる厳島の巫女たちが歓迎する。
予定は七日間だが、その間内侍たちは今様や琵琶、琴などで実定卿を慰めた。その中に17歳になる有子内侍に目がとまり、「山の端に契りて出でん夜半の月 巡り逢うべき折を知らねど」と歌を詠み実定の思いを伝えます。
実定卿が都へ帰るときに有子内侍はこの岩(後に名付けられた内侍岩)に立ち、舟が見えなくなるまで別れを惜しんだといい伝えられています。
その後、有子内侍は日ごとに恋しさが募り、恋情を抑えきれずに、琵琶を携えて、都へ向かう船に飛び乗り後を追いましたが、実定卿は徳大寺左大将、一方わが身は厳島神社の名もない巫女です。及ばぬ恋と知り、終に津の国住吉の澪つくしの沖にして更け行く夜半の月に向って「はかなしや波の下にも入りぬべし 月の都の人や見るとて」
と詠み身を投げ17歳の短い命を絶ったという悲恋の物語がこの岩に秘められているそうです。
(とくだいじ さねさだ)
徳大寺 実定:
(1139 -1192)
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。父は徳大寺公能(きんよし:1115-1161)。母は藤原俊忠の娘豪子。藤原俊成の甥、藤原定家(1162-1241)の従兄弟にあたる。
1183(寿永2)年内大臣、1186(文治2)年右大臣、1189(文治5)年左大臣。
この内侍岩のことは、宮島を調べるまでは全く知らない話でした。
調べて知った時も平家物語も読んだことがないわたしですので、若い女性をたぶらかした男の話かなどと思っただけでしたが、今(2008)年になって「宮島七浦巡り」の船も七浦を巡り終え、そろそろ終わりに近づいたかなと思った時、ガイドの方があれが内侍岩ですと岩の場所とその話を説明されたので、これかと思いあわてて撮影したのです。
08.08.05裕・記編集

08.06.15撮影
広島県廿日市市宮島町室浜

08.06.15撮影



「安芸の宮島」編


「民話」編



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(宮島の内侍関連)
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