被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」第四号碑日本福音ルーテル広島教会・拡大版

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05.12.31裕・編集
世界がヒロシマを忘れたとき、再びあの日は繰り返される。
“原爆の絵碑”4号碑について
  この2枚の絵は、1945(昭和20)年8月6日旧制広島一中三年生(14歳)約70名が、学徒動員で建物疎開作業の直前に、被爆した時の様子を表したものです。場所はこの4号碑の附近であったと思われます。作者の森下弘さんは高等学校や大学で書道の教師をされると共に詩人や書家としても活躍されておりヒロシマを世界に伝える市民団体「ワールドフレンドシップセンター」(米国の故バーバラ・レイノルズ女史設立)の理事長であります。使用されている石材は60年前に被爆したものです。                                            2004(平成16)年3月21日
あの日をみつめてください
きのうを忘れては、あしたは見えない。 1945(昭和20)年8月6日の朝、この場所で何が起こったか。写真の一枚もなく、ああ、どんどん忘れられていく。 どうか、目をそらさないでみてください。この絵はあの朝、この地で生き残った被爆者が渾身の力と万感の思いで描いた、この場所の眺めです。
どうか忘れないで!日本の人たちよ、世界の人たちよ。二度とこの光景が地球上に繰り返されないように、この絵を見つめてください。

                                          早坂暁(あきら:小説家・脚本家;1929-   )
広島市中区鶴見町2-12 ルーテルビル  (日本福音ルーテル広島教会3階入口根際)
森下 弘
(1945年)8月6日8時15分
爆心から1.5km
鶴見橋西詰で
家屋疎開作業前
私たち広島一中三年生(14歳)
70名は、整列して(北向きに)
作業上の注意を聞いていた。
爆発!
巨大な溶鉱炉に
すっぽりと投げこまれた感じ
とっさに伏せたが、すでに、
顔、手、首、足を火傷、
皮膚がたれ下った。
そして、爆風がサーツと
その瞬間、
一緒にいた70名が、一人以外は、
どうなったか知らない。
後日の話で、アンケートで、
地上にたたきつけられた者、
数米吹きとばされた者、
気を失った者
みんなが将棋倒しに
圧しかぶさって、息がつまり、
そうだったと言う者、
火傷馬が暴れていて
怖かったと言う者・・・
さまざま。
想像して描いてみた。
閃光、熱線
瞬間、私たち70名の生徒は
巨大な溶鉱炉にすっぽりと投げこまれたそして爆風が・・・
(鶴見橋西詰、爆心から1.5km)


 


















 







































 




「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」の4号碑



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被爆者が描いた絵・碑」編





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