平清盛(日招)像

平清盛(たいらのきよもり:1118-1181)
  平安末期の武将。忠盛の長子。実父は白河法皇(∵母は祇園の女御の妹であって院中に召され懐妊しのちに忠盛にくだされた)。通称平大相国、法名浄海。太政大臣。 平氏の棟梁。
1129(大治4)年従五位下左兵衛佐、1146(久安2)年累進して正五位下、安芸守(宮島の厳島明神を信仰するようになり、父とともに西国への勢力を拡大)1947祇園社の間僧衆と部下の武士との乱闘事件に関係して贖(しょく)銅30斤に処せられた。1153(仁平3)年忠盛の死とともに平氏武士団の総帥となった。1156(保元1)年保元の乱には源義朝とともに後白河天皇方にたち、功によって播磨守となりつぎに大宰大弐となり、信西(藤原通憲)と結び、義朝と結ぶ藤原信頼と対立。
1159(平治1)年平治の乱で信西が倒されてからは、王朝国家の軍事力を一門で握り、以後官職は破格の勢いで進んだ。1167(仁安2)年ついに内大臣から左右大臣を経ずに従一位太政大臣となり平氏政権を樹立した。この間、妻時子の妹滋子が後白河院の後宮に入って、1161年憲仁親王(高倉天皇)を生み、その中宮に娘の徳子(建礼門院)をおくり天皇家との婚姻政策を図ってついに安徳天皇の外戚となり、巨大な勢力を築いた。9人の娘のうち長女は藤原信西の子桜町中納言成範に、盛子は関白藤原忠通の子基実に、その他近衛基通、冷泉大納言隆房修理大夫信隆らに嫁がせ摂関家との協調をはかり、さらに天台座主(ざす)明雲とも通じて、宮廷にその勢力を扶植した。 一門による官職の独占、30ヶ国の知行国、500余ヶ荘の荘園、兵庫(大輪田泊)と鎮西を根拠にした日宋貿易などを政治的・経済的基盤として六波羅政権を樹立した、しかし太政大臣に就任してほどなく病を得て辞任した。翌1168(仁安3)年出家して法号を清蓮ついで静海と称した。
1177(治承1)年鹿ヵ谷の事件を切り抜けたのち、1179(治承3)年後白河法皇を鳥羽殿に幽閉してクーデターを行ったが、以後平氏追討の動きが活発となり、1180年源頼政が法皇の第2子以仁王を奉じて挙兵すると寺院勢力もこれに呼応した。反乱を鎮圧するとともに福原遷都を断行しが、貴族階級の不満をつのらせ諸国の源氏もあいついで決起した。同年11月京都に遷都し、12月ついに法皇の院政を請い、自らの政権を放棄するとともに軍事的退勢を一挙回復しようとしたが1181(養和1)年閏2月4日64歳、熱病に倒れ世を去った。
音戸の瀬戸を1日で開削したという平清盛像が音戸の瀬戸公園・高烏台に建立されています。
1165(永万元)年に平清盛が西に沈む夕日を「金の扇」で招き返し、1日で切り開いたという伝説のある名勝地。毎年4月上旬には約2000本の桜、5月上旬ともなると、8000本余りの紅白のツツジが咲き乱れると聞きますが、今(2003)年は終っていました。
2012年NHK大河ドラマ「平清盛」を切掛けに観光客獲得を目指す広島県では色々なイベントを計画し実施しているようです。2月になって中國新聞に『山口県周防大島町出身の彫刻家・故林健が制作し寄贈した平清盛の日招(ひまねき)像が、大島町久賀総合支所のロビーに飾られている。町によると呉市の音戸の瀬戸公園の平清盛公日招像の原版で、6月末まで展示する。』という記事で、この頁で紹介していた、平清盛像が林健作品であることがわかりましたので、追記し、作品題も「平清盛日招像」と変更しました。
12.04.23追記   03.05.05裕・記編集

03.05.03撮影
平清盛像がある高烏台のツツジは終りでした

03.05.03撮影
林健作:平清盛日招像

03.05.03撮影

03.05.03撮影
清盛像の下は旧火薬庫(立ち入り禁止の柵も壊れかけていました)



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