大山峠 大山駅跡
  東広島市八本松町宗吉にある「大山峠」を取り上げました。
日本書記崇神(すじん)天皇(三世紀前半)の条に「西道(にしのみち)」のことがあり、これは後の山陽道のことだと云われ、そうであればこの道もこの峠も弥生時代すでにあったことになります。
その後、山陽道は京と筑紫・大宰府を結ぶ官道となり、当時の道路区分では大道で、この付近に延喜式にいう大山駅が置かれていました。
この道は、明治17(1884)年2号国道が新設されるまで、国の幹線道路としての役目を果たしました。
その間、九州へ派遣される防人もこの峠に立ったでしょうし、元寇の急変を京へ知らせる早馬も駆け過ぎて行ったことでしょう。
また、明治維新の志士・吉田松陰(1830-1859)や高杉晋作(1839-1867)らもここを通っていることを考える時、その時代時代の歴史をみてきた峠でもあります。
東広島市郷土史研究会他が昭和58(1983)年4月設置説明板ですが上記は全文ではありません
大山峠は、今回の瀬野公民館主催「大山を歩く〜瀬野まち歩き」のクライマックス(主目的地)ではあるのですが、ここが大山峠かと思うほど淡々としているうちに到着しました。「大山峠」説明板、「旧山陽道大山峠」石柱碑がなければ通り過ぎてしまい、少し経って下りになったなと感じた時にあれが大山峠だったのかと思っていたでしょう。
今回のように東広島市八本松町から大山峠へは淡々と到達しましたが、広島市上瀬野側から登っておればやっと来たかと思ったであろうと思う、この大山峠からの下り道でした。
09.01.26裕・記編集
大山峠

08.10.11撮影
東広島市八本松町宗吉(むねよし)  大山峠

08.10.11撮影

08.10.11撮影
大山駅跡
  東広島市八本松町宗吉に過って設置されていたという「大山駅跡」について取り上げました。
※現在は駅跡の残り香はありません。
大化の改新の翌年・大化2(646)年中央集権国家を目指し朝廷は正月の詔で駅制を定めました。
山陽道、東海道、東山道、北陸道、山陰道、南海道、西海道の七道が設けられ、山陽道には58駅が置かれ、官府を下す場合は官吏が都を出発し駅駅の馬を乗り継いで政令を伝達したのです。
各駅の名称、順序、常傭する馬の匹数は「延喜式」兵部に記されています。
安芸国における古代山陽道の駅は真良〜梨葉〜都宇〜宇鹿〜木綿〜大山〜荒山〜安芸〜伴部〜大町〜種箆〜濃唹〜遠管の13駅で駅には二十匹の駅馬を擁し、駅家の施設として、駅長の執務室、駅子の控室、利用者である駅使の休息室・宿泊室それに炊事場があり、屋外には駅馬を繋ぐ広場、井戸それに駅稲・酒・塩などを収納する倉庫があり、入口には駅門も設けられていたそうです。
大山駅に関しては標識が設置されている山中とする説と麓にあったとする説の2つがあるそうですが、(わたしの個人的な見解は)駅家の施設や物資の調達などを考えれば麓に設置されたのではないかと思いますが、現在「大山駅跡」の標識が建てられている処ではないとする確証などはわたしにはありませんので。

08.10.11撮影
東広島市八本松町宗吉   大山駅跡

08.10.11撮影
(すじんてんのう)
崇神天皇:
(前148-前29)
記紀所伝の第10代天皇。御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりびこいにえのみこと)の漢風諡号(しごう)。開化天皇第二皇子。北陸東海西道丹波などを平定。
また、税制の基盤を築き、国家体制の基礎をととのえ、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)といわれる。都は大和磯城瑞籬(しきみつかき)宮。
(※現代日本学術上、実在の可能性がある程度見込めるはじめての天皇と云われているようです)
(さきもり)
防人:
律令制下、大陸からの侵入を防ぐ目的で九州北部の沿岸や壱岐・対馬(いき・つしま)に派遣された兵士。
白村江(はくそんこう:朝鮮半島南西部の河川)での敗戦(663年)以後整備され、諸国の兵士が三年交代で任に当たったが、730年から東国兵士に限った。
その後数度の改廃を経たが、10世紀の初頭には有名無実となった。



「わが町附近」編


「街道・通り」編



広島ぶらり散歩へ
旧山陽道(大山峠〜一貫田)一覧



「東広島市」編





   
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送