とこのやま 
    
鳥籠山城跡

  安芸区中野の鳥籠山に過ってあった阿曽沼氏の居城だった「鳥籠山城跡」を取り上げました。
鳥籠山城跡(鳥籠城跡)     所在地:広島市安芸区中野2丁目
鳥籠山城は、安芸の国人領主阿曽沼氏の居城跡です。
瀬野川西岸、標高374mの蓮華山山系から南西に伸びる尾根の先端部を独立させた山城で、最高所に1郭を置き、尾根上をほぼ南東方向に大小13の郭を階段式に配置し、最先端部は現在一部宅地となっていますがこの部分にも郭が存在した可能性があるそうです。
1221(承久3)年甲斐国巨摩郡荒山荘・鳥籠山の城主・阿曽沼甲斐守藤原光網が承久の乱(1221年)の功績により、安芸国安南郡世能荘に入府一族が移住してきました、甲斐鳥籠山に因んで居城の一山を鳥籠山と称し、阿曽沼氏は、下野国阿曽沼郷に居住していた足利氏の庶流だそうです。
阿曽沼氏は、はじめは大内氏についていましたが、1527年尼子氏に寝がえったことで、毛利元就に城を攻め落とされ、それ以後毛利氏方の国人となり、厳島合戦(1555年)や防長制圧戦では毛利軍の先鋒を務めるなど毛利氏方の有力国人領主であったが、毛利氏が1600年関ヶ原の戦いの責任をとらされて防長減封、毛利氏に従い萩へと移ったそうです。
資料は広島市文化財団文化科学部文化財課の資料などを参考にしました。
この地に引っ越してくるまでは阿曽沼氏のことはほとんど知りませんでした。
わが町ぶらリ散歩で矢口神社に行ったとき阿曽沼氏のことを知り少しばかり調べましたが、まだまだ詳しくは知りませんので充実した頁とは言い難く今後とも機会あるごとにと思っています。
06.06.11裕・記編集

’06.05.07.撮影
広島市安芸区中野2丁目の鳥籠山城跡を国道2号線から見る (画像中央左手山頂付近が城跡、右が蓮華寺山)

’06.05.07.撮影
画像右手の小高い丘上に位置してたという、国道2号線から見る、左手が日浦山

’06.06.05.撮影
正面が城跡の丘、鉄橋は畑賀川に架かる山陽本線の鉄橋

’06.06.05.撮影
山城跡の近くまで住宅が近づいています

’06.03.14.撮影
赤十字印のところ附近が鳥籠山城跡
(じょうきゅうのらん)
承久の乱:
1221(承久3)年後鳥羽上皇らが鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、執権北条義時を中心とする幕府軍に鎮圧された事件。後鳥羽・土御門・順徳の三上皇は配流、上皇方の公家・武士の所領は没収され、新補地頭の設置、六波羅探題の設置など幕府の権力は西国でも強化され、公家勢力の権威は著しく失墜した。承久の変。
(おおうちよしおき)
大内義興:
(1477-1528)
室町末期の武将。周防を中心とする六か国の守護。1508年将軍足利義澄を追って義稙(よしたね)を将軍職に復させ、自らは管領代となる。対明貿易権を独占した。
(おおうちよしたか)
大内義隆:
(1507-1551)
戦国時代の武将。周防を中心とする七か国の守護。義興の子。学芸を好み、山口に京文化を移植し、また明・朝鮮の文物を移入。大内版を開版。キリスト教布教を許す。家臣陶晴賢に襲われ自刃。
(あまこつねひさ)
尼子経久:
(1458-1541)
戦国時代の武将。出雲守護代。山陽一帯に勢力を伸ばしたが、大内義興およびそれに与(くみ)した毛利元就によって拡大を阻止された。
(もうりもとなり)
毛利元就
(1497-1571)
戦国時代の武将。大内義隆が家臣陶晴賢に倒されたのち、陶氏を討って周防・長門を支配下に収め、出雲の尼子氏を倒して中国地方十か国を制覇。一族の結束を固めるための三本の矢の教訓が有名。
(すえはるかた)
陶晴賢:
(1521-1555)
室町末期の武将。初名、隆房。主君大内義隆にそむいて自刃に至らしめ、その領国を掌握。厳島の戦いで毛利元就に敗れて自害。
(やまじろ)
山城:
山頂や山腹に設け、防御を自然の険しい地形に依存した城
(とりで)
砦:塁:寨:
1)本城から離れて設けられた小さい城。規模の小さい城。
2)外敵を防ぐために築造した建造物。要塞。



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