類焼を免れた喜びを伝えて」記念碑

  中区千田町の(千田)ちびっ子広場に建立されている「類焼を免れた喜びを伝えて・記念碑」です。
碑文にありますが、1945(昭和20)年8月6日(午前)8時15分米軍投下の原子爆弾での直接的な火災ばかりではなく、被爆後時間をおいて自然発火した火災が起ったそうで、おじさんの原爆記にも「全(広島)市は真赤な火の海だった」と書き残しています。
その自然発火した火災を地域住民の協力で消し止めたという喜びを後世の人々に伝え残したいとの願いで建立された碑です。
  [原爆の証言] (1945年)8月6日(午後)4時から5時推定、日赤側から焼え拡がって来た。私は(広藤忠雄)自動車課長伊倉豊久氏の指揮で居合せた車輌課の澄川某氏外1名と協力して広島電鉄本社貯水槽よりホースを引き、A地点から消火に努めたが、強力な消火作業にはほど遠いものがあった。そこへ消防自動車が来あわせて、B地点に綿布袋へ水を溜め消防車は、この水を利用して防火に努め、結果類焼を喰い止める事が出来た。
1.電鉄本社及び車庫類焼の防止には、社員が従事し、類焼を喰い止めた
                           (風が西向きに急変したことも幸いした)
2.千田3丁目に憲兵隊宿舎があり、ここの非番憲兵が類焼防止に協力されたとの
                                           言い伝えもある
     (広藤忠雄氏、宮本カツさん証言)
善意のある人々の沈着勇敢な行動により、千田町3丁目以南の南千田東町・南千田西町は共に全壊・半壊・三分倒壊であったが、工学部校舎も県立工業学校も焼失することなく延焼が喰い止められた。従って家屋の下敷きになり焼死する悲惨な事はまぬがれた。
広藤忠雄氏、伊倉豊久氏、宮本カツさん、憲兵隊(人数不詳)
この方々の功績を賛え後世に伝えるものである。
平成元(1989)年11月     明日の千田を創る会
この千田ちびっ子広場前の電車道を挟んで向かい側に広島電鉄本社(爆心地から≒1900m)があります。
広島電鉄では多くの原爆による犠牲者を出したことで原爆慰霊碑が建立されており、本社社屋の前には原爆被災説明板も設置されていますので、この頁の関連ということで(最下段に)リンク欄を付けています。
2005年訪ね、撮影しこの頁を編集しました。
2015年久しぶりに訪ね撮影しましたので、この頁を再編集しました。
15.07.06.更新    05.12.14裕・編集

05.10.10.撮影
広島市中区千田町3−10 (千田)ちびっ子広場前

05.10.10.撮影
正面:碑文と延焼を止めた地図、中国新聞社提供の写真が3枚掲載されています

05.10.10.撮影
裏面にも延焼を止めた地図が描かれています
記念碑にある地図に何処で類焼を止めたかの線が入っています。
記念碑にある写真
「日赤付近から北方(爆心地方向)を望む、千田町3丁目以南の地区も(原爆による火災で)類焼しておれば、このような惨状となっていたはずである」
記念碑にある写真
「(原爆による火災で)焼失をまぬかれた広島電鉄の社屋(ですが原爆による被害は甚大であった)」
記念碑にある写真
「(原爆による)爆風により倒壊した家屋の状況(南千田西町) 写真提供:中国新聞社」

15.04.30.撮影
≒南側より(千田)ちびっ子広場をみました

15.04.30.撮影

15.04.30.撮影

15.04.30.撮影
裏面は現地の方角が合うように地図が描かれています(ので表面の地図とはさかさまになっています)

15.04.30.撮影



「平和祈念碑等建立地一覧」編



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