広島の橋ぶらり散歩「被爆した橋梁」編

  わたしは数年前まで被爆して現在も残る橋を被爆橋梁と呼んでいる事さえ知らなかったのです。
2000年頃から“原爆関連の慰霊碑巡り”をはじめてから、多くの原爆被災者が原爆に耐え落橋しなかった橋、被害が甚大でも渡る事ができた橋々を渡り、避難して行ったことを知ったのです。
また、被爆のその年・1945(昭和20)年9月の台風、10月の水害で、辛うじて残っていた橋々が壊れ流されたことも知ったのです。
被爆橋梁と呼ばれ現在も現役の橋が六橋あり、その橋を取りあげてみたのがこの頁です。
広島市は、1945(昭和20)年8月6日原爆惨禍にも耐え現在も残り、爆心地からおおむね3000m(3km)以内の橋を被爆橋梁と呼んでいるようです。
橋構造資料は、広島市企画総務局国際平和推進部などの資料などを参考にしました。
07.02.25裕・記編集
1 京橋(きやうはし)

04.04.06撮影
爆心地から≒1,380m
京橋川に架橋されています。

  現在の京橋(きょうばし)は、1927(昭和2)年8月国道橋として架橋されました。
橋長:64.5m、幅員:8m、上部:ゲルバー鋼鈑桁橋、下部:壁式橋脚です。
  1591(天正19)年に、京に向かう橋ということで最初の「京橋」が誕生したそうで、京橋川は京橋が架けられた川ということで明治以降呼ばれたそうです。
2 榮橋(さかえばし)

03.05.08撮影
爆心地から≒1,510m
京橋川に架橋されています。

  初代の榮橋(さかえばし)は、1906(明治39)年3月架橋されたそうです。
1930(昭和5)年10月架橋の榮橋(栄橋)は、原爆の惨禍を経て現在に至っています。
橋長:87.22m、幅員:72.m、上部:鉄筋コンクリート連続桁橋、下部:多柱式橋脚の橋です。
3 比治山橋(ひぢやまはし)

05.01.28撮影
爆心地より≒1710m
京橋川に架橋されています。

  比治山橋(ひじやまばし)は、初代の鶴見橋として(大黒渡しといわれた渡し場があった附近に)1939(昭和14)年9月架橋されました。
橋長:147.5m、幅員:20m、上部:鉄筋コンクリートゲルバー桁橋、下部:門型橋脚の橋です。
4 猿猴橋(ゑんこうはし)

00.07.22撮影
爆心地から≒1,820m
猿猴川に架橋されています。

  現在の猿猴橋(えんこうばし)は、1926(大正15)年3月架けられました。
構造などは橋長:62.4m、幅員:8.5m、上部:鉄筋コンクリート連続桁橋、下部:壁式橋脚の橋です。
  1945(昭和20)年8月6日原爆で欄干の一部が破損した被害はあったものの渡ることができたそうです。
5 荒神橋(くわうじんはし)

05.04.16撮影
爆心地から≒1,910m
猿猴川に架橋されています。

  1939(昭和14)年電車併用橋として架橋の荒神橋(こうじんばし)は、原爆の惨禍を経て今日まで健在です。
  構造は橋長:80m、幅員:20m、上部:鉄筋コンクリートゲルバー桁橋、下部:ラーメン橋脚の橋です。
原爆の爆風により欄干が破壊されたが渡ることができたそうです。
6 観光橋(くわんくわうはし)

05.02.19撮影
爆心地から≒2560m
八幡川に架橋されています。

  八幡川に架かるこの観光橋(かんこうばし)は、
1937(昭和12)年11月橋長9.8m、幅員22m、PC桁橋として架橋されました。
橋名板はいわゆる‘旧かなつかい’で刻まれていますので、この頁の橋の読みは其れに従っています。
現代で使われている、かなつかいとは違っていることは云うまでもないと思っていましたが。
ゲルバー桁橋 張り出した両側の橋桁に橋桁を載せた構造の連続桁橋。
ゲルバーとは考案者の名前で、独人ハインリッヒ・ゲルバー(1827-1890)のことです。
PC橋 引張力に弱いコンクリートの性質を克服するため、高強度のPC鋼線であらかじめコンクリートに圧縮力を作用(プレストレス)させて補強した桁を使った橋梁で、コンクリート打設後にPC鋼線を緊張(ポストテンション)したものです。
1928年にフレシネが実用化に成功したプレストレスト・コンクリートは、その後、1940年代になって、実用化の時代を迎えています。



「広島の橋」編



広島ぶらり散歩
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