|
安芸高田市向原町に過ってあったという「田屋城・跡」を取り上げました。 |
右側尾根、比高約100mを深い竪掘りで区画した田屋城は、四つの郭で構成しています。主郭(本丸)は掘り込みを入れた櫓台状の土塁を背にし、続く二郭は西側桝形の虎口があり、石垣による区画がある。三郭は、主郭の北西下約10mにあり、中央に深さ約9mの石垣井戸があります。さらに10m下に四郭があり、一時荒神社が祀られた跡があります。
厳島神社神主佐伯氏の一族内藤為弘は荘官でしたが、鎌倉幕府の地頭となり、代々この地方を領有していました。
築城は南北朝時代の14世紀頃と考えられています。
高田郡社寺古城由来記には「・・・高五間※、よこ廿間、城主内藤河内守、知行高四千石の由・・・」と記されています。この城に由来する地名に田屋、矢拍子、城山、陣ヶ坪、東山、黄幡谷などがあり、またまつわる民話・伝説も多い。 |
|
※ |
説明板には五十間とありますが安芸高田市企画課の資料には五間とありましたので、市の資料を参考にしました。 |
(しょうかん)
荘官: |
荘園で、領主の命を受けて年貢の徴収上納、治安維持などの任務にあたった者。中央の領主から派遣される場合と地方の有力者が任命される場合とがあり、時代が下るにしたがって後者の形をとるようになった。荘司。 |
|
2001年にはじめて向原町のカタクリ自生地に来た時にこの「田屋城跡」の説明板を詠んだのですが、頁として編集していませんでした。今(2009年)回は三次に行くのが主でしたので説明板と少し離れて撮影しましたが、説明板を読めばわたしが撮影したところよりももう少し右側のようでしたが、頁としては編集しました。
2011年遠景を撮影しましたので、加えました。
|
11.0510更新 08.07.25裕・記編集 |
|