(饒津神社に建立の)臨時陸軍検疫部職員死者追悼之碑

  東区二葉の里の饒津神社に建立されている「臨時陸軍検疫部職員死者追悼之碑」です。
日清戦争が終わり、外地から帰国する従軍者のために、臨時の検疫所が似島に設けられました。
三ヶ月に232,346名、932,672点もの検疫をし、その間53名の方々が病気に感染して死亡されました。日本に病気等を入らせなかった業績は偉大なものとして後世に伝えるため碑を、明治28(1895)年10月31日建立。
日清戦争当時凱旋兵に対して検疫を実施することを、野戦衛生長官・石黒忠直が陸軍大臣に上申{それは1877(明治10)年西南戦争において凱旋軍が検疫を受けずコレラが蔓延し500名以上の死者を出したことによる}、その時期中央衛生会・長谷川泰委員長も建言を提出していた。
児玉源太郎陸軍次官は検疫の決定をし、臨時陸軍検疫部部長を児玉源太郎がやり、後藤新平が事務長官としてわが国初で、世界でも例のない大検疫事業が始まりました。
関連頁: (似島学園の)後藤新平像
以前牛田に住んでいましたのでこの饒津神社の横は何度となく通っていたのですが、境内内の碑をみることは余りありませんでした、参道から少し外れている、この碑も撮影はしていましたが、編集していませんでした。今回、広島市教育委員会発行の「広島の石碑」をみると最初に紹介してありましたので碑文もわかりましたので編集しました。児玉源太郎が臨時軍用水道布設部長になっていることを水道資料館で知ったのですが、その前は臨時陸軍検疫部長であったことをこの碑で知りました。
※資料は、広島市教育委員会発行「広島の石碑 心と形」を参考にしました        08.03.06裕・記編集
   関連頁:(陸軍墓地の)明治二十七・八年合骨・碑

07.05.28.撮影


























































兒玉 源太郎(こだま げんたろう) (1852-1906) ※(通常は、児玉源太郎の表記が多い)
軍人。徳山藩出身。1904(明治37)年陸軍大将。勲一等功一級伯爵。
戊辰戦争参加後、1870(明治3)年陸軍入り。陸軍大学校長・台湾総督・陸相などを経て、日露戦争の満州軍総参謀長。1906(明治39)年参謀総長となる。
1889(明治22)年少将。1895(明治28)年男爵。1896(明治29)年中将。1904(明治37)年大将。1906(明治39)年子爵。1907(明治40)年贈男爵。
関連頁:(牛田浄水場の)不舎晝夜・石額    (饒津神社の)臨時陸軍検疫部職員死者追悼之碑
敬称は略しました



「軍都・廣島関連施設戦跡」編


「牛田・二葉の里附近」編



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