(饒津神社の)石水盤石燈籠銘・碑

   東区二葉の里の饒津神社に建立されている「石水盤石燈籠銘・碑」です。
石水盤石燈籠銘(せきすいばん いしどうろう めい)
文化七(1810)年浅野長政(1547-1611)二百回忌法要が明星院で営まれた際手水鉢・石燈籠を奉納した二百七十二名の刻名。天保六(1835)年饒津神社創建の時に移設。
奉納者は浅野長晟(1586-1632)が紀伊国(和歌山)より元和五(1619)年安芸国入国時(に随従した人達の文化七年時に於ける子孫。手水鉢(唐門下)は原爆遺跡として保存。全石燈籠127基中境内には23基が現存しています。頌徳文は頼山陽の父・弥太郎の撰。
(らい しゅんすい)
頼 春水:
(1746-1816)
江戸時代中期・後期の儒学者、詩人。安芸の人。頼山陽(1780-1832)の父。
幼名は青圭。名は惟完あるいは惟寛。字は千秋、伯栗、春水は大坂で用いた号で江戸では霞崖と称した。別号に拙巣、和亭がある。通称は弥太郎。
饒津神社は何度も参拝で立寄り関連の頁も編集していましたが、最近といってもになって二葉山山麓七福神というものが出来(設置され)たことから撮影でもしておくかと、聖光寺からここ饒津神社に来たのです。
饒津神社の恵比須天像を撮影し、浅野長勲公頌徳碑もみてみようとした時にこの「石水盤石燈籠銘」碑に説明板が以前よりあったかなと思ったのですが、説明板は真新しくないので、他の碑と同時期に設置されたものだろと思い、うかつだったな〜とこの頁を編集しました。
       11.02.28裕・編集

11.01.25.撮影
   広島市東区二葉の里2‐6‐34 饒津神社

11.01.25.撮影
石水盤石燈籠銘・碑と浅野長勲公頌徳碑 石水盤石燈籠銘(表面、裏面)



















文化7年
(1810年)

11.01.25.撮影

11.01.25.撮影

11.01.25.撮影

11.01.25.撮影

11.01.25.撮影



「牛田・二葉の里附近」編


「頼山陽関連」編



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饒津神社(概説)
饒津神社・原爆被災説明板
(枯死した)被爆樹木・松
(境内に残る)原爆の傷跡復興記念碑
(被爆した)手水鉢〔復活した手水舎〕
(再建された)向唐門
(再建された)(再建された)両部大鳥居
(境内社)稲荷大明神
(境内建立の)浅野長勲公頌徳碑
(境内建立の)石水盤石燈籠銘・碑
(境内建立の)坂井虎山先生之碑
(境内建立の)河野小石先生碑
(境内建立の)木原桑宅翁之碑
(境内建立の)北清事変忠死者紀念之碑
(境内建立の)臨時陸軍検疫部職員死者追悼之碑
(被爆した)標縄柱
(境内建立の)標縄柱銘并序・碑
(境内建立の)広島県職工学校開校の地・碑





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