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西区己斐の国泰寺に建立されている「大石りくのお墓」です。
※もともと国泰寺は現在の中区に創建されていましたが、1945(昭和20)年8月6日原爆の惨禍で焼失し、
戦後西区の現在地に移転しています(のでこのお墓も移設されています)。 |
大石良雄妻 理玖(りく:1669-1736)の墓
理玖は在広二十余年この間國泰寺住職大震師につき法尼となって仏門に精進した、1736(元文元)年11月19日68歳没。法名は香林院花屋壽榮大姉。 |
壽榮法尼は(但馬国豊岡藩)京極高住公家(の家老)石束源五兵衛毎公の長女。1687(貞享4)年播磨国赤穂藩浅野家筆頭家老の大石内蔵助良雄と結婚。三男二女有り。 |
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国泰寺九世大震叟の墓誌銘が刻まれています(が長文わたしには難解で略)。「・・・・貞操 簾節 儀容 風 を異にす 端心 化を生じ 始めを克くし終りを克くす」 |
国泰寺跡(愛宕池跡)の頁を編集していましたが、己斐峠近くに移っている国泰寺には行ったことはなかったのです。大石蔵助の妻・りく、三男・大三郎が広島藩に招かれた経緯やお墓が国泰寺にあって、お寺の移転にともない移築されていることを益田与一氏著「頼山陽と芸備の人々」を読んでいて知り是非に訪ねなくてはと思ってきたので、彼岸の中日を過ぎに訪ねました。
いまは、移築されていますが、もともとは中区中町に位置していた国泰寺ですので爆心地からおおよそ600mくらいで被爆した墓石だとわたしは思っています。 |
08.03.30裕・記編集 |
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