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西区己斐の国泰寺に建立されている「大石大三郎の墓」です。
※もともと国泰寺は現在の中区に創建されていましたが、1945(昭和20)年8月6日原爆の惨禍で焼失し、
戦後西区の現在地に移転しています(のでこのお墓も移設されています)。 |
大石良雄三男 大三郎(1702-1770)の墓
大三郎良恭は12歳で知行壱千五百石奉行次席となった。1770(明和7)年2月14日69歳で没。法名は松巌院忠幹蒼榮居士。 |
旗奉行次席・番頭・奏者頭などの重職を歴任。男子が二人あったが、いずれも妾腹であるため、小山孫六郎良至(大石良欽の次男小山良速の孫)の五男良尚を養子に迎えて大石家の家督を継がせた。 |
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国泰寺十四世癡庵叟の墓誌が刻まれてます「・・・人と為り精敏、禀性忠孝、是を以て骨格あり。十二歳吉長先君の寵遇する所ちなる。藝州高田郡に千五百石の釆地を賜る。・・・・父子の行業、前無く後を絶つと謂うべし。今茲に明和七年庚寅二月十四日、俄然逝く。実に六十有九年歳なり。孝子対くて一塔を営み請うて銘を為る。銘に云う。塔林 長短を離れ 全身五輪に入る 那辺の人か見ざらん 何ぞ敢て埃塵に堕せん」 |
国泰寺跡(愛宕池跡)の頁を編集していましたが、己斐峠近くに移っている国泰寺には行ったことはなかったのです。大石蔵助の妻・りく、三男・大三郎が広島藩に招かれた経緯やお墓が国泰寺にあって、お寺の移転にともない移築されていることを益田与一氏著の「頼山陽と芸備の人々」を読んでいて知り是非に訪ねなくてはと思ってきたので、彼岸の中日を過ぎに訪ねました。 |
08.03.31裕・記編集 |
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