(専念寺) せいちゅうひ
旌忠碑
  廿日市市宮内にある専念寺門前に建立されている「旌忠碑」です。
    碑表面:旌忠碑、  碑側面:明治四十五年七月建之 宮内村、 
    碑裏面:義勇奉公 明治二十七・八年戰役、明治三十七・八年戰役、名前多数刻まれています。
碑に刻まれた文字が薄くなってきていることと高い位置でしたのでよくわからなかったのですが、西南戦争(明治十年戰役という文字はないようでした、日清戦争(明治27・28戰役)、日露戦争(明治37・38戰役)は何とか読めましたが、明治33年(北清事変)もあるようでしたが??、従軍者、戦死者のお名前が刻まれているようですが、戦病死者などは正確には読めませんでした。
(おく やすかた)
奥 保鞏:
(1846-1930)
陸軍軍人。元帥。豊前国小倉藩(福岡県)生まれ。官位は元帥陸軍大将伯爵。
1894(明治27)年日清戦争では(野津道貫の後任として)(広島の)第5師団長。1903(明治36)年陸軍大将。1904(明治37)年日露戦争第二軍司令官。のち参謀総長。
専念寺山門横、旧・西国街道沿いに建立されている「旌忠碑」が目に入りましたが、わたしははじめてみる碑銘でした。裏に回ると義勇奉公の文字が見えましたので、忠魂碑に類する記念碑だなと思いました。
08.10.23裕・編集

08.09.28.撮影
廿日市市宮内1543

08.09.28.撮影






















08.09.28.撮影

08.09.28.撮影
せい
1.ハタ (イ)旗の総称(ロ)旗ざおにかざりがある旗
2.アラワす (イ)表彰する、賞す(ロ)表示する(ハ)明らかにする(ニ)見分ける。識別する。
にっしんせんそう
日清戦争
1894(明治27)年8月から翌(1895)年にかけて日本と清国の間で戦われた戦争。朝鮮進出政策をとる日本は、宗主権を主張する清国と対立、甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国は朝鮮に出兵、日本軍は豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃し開戦に至った。日本軍は平壌・黄海・威海衛などで勝利し、1895(明治28)年4月、下関で講和条約締結。
ほくしんじへん
北清事変
=義和団事件(ぎわだんじけん)=団匪事件
1899(明治32)年〜1900(明治33)年列強の進出に抗した中国民衆の排外運動。
山東に始まった義和団の運動が華北一帯に波及、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、日・英・米・露・独・仏・伊・墺(おう)連合軍の出兵を招き、鎮圧された。
にちろせんそう
日露戦争
1904(明治37)年2月から翌年にかけて、満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国はアメリカ大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。



「軍都・廣島関連施設戦跡」編



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