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中区小町に建てられている「海雲山來迎寺・妙慶院」です。 |
知新集によると
『 海雲山來迎寺妙慶院は、浄土宗鎮西派のお寺で京都・知恩院の末寺で、安藝國城下郡中鎮西派三十四ヶ所の觸頭でした。妙慶院はもと來迎寺と云って(尾長村の)尾長山にあったのを此地(新川場:現在の小町)に移されと伝えられています。
慶長五(1600)年福島正則(1561-1624)が藝備両國の太守に任じられ、その時妙慶院造立し寺領百石(一説には二百石又三百石)寄附し菩提所に定められました。その縁由はというと、明智日向守光秀(1528頃-1582)の一子(本能寺の変の時二歳)が成長して出家し増譽といい、福島正則の奥方が光秀の妹というゆかりで妙慶院の住持にし、正則の母の法名・妙慶の二字をとって妙慶院と号しました(海雲山というようになったのは詳らかではありません)。その時は東隣の正清院、海雲寺西隣の戒善寺、裏隣の源勝院、等覺院、勝浦多門屋敷まで境内でしたが、慶長三(1598)年増譽が遷化し、元和5(1619)年福島正則配流の後はあまたの寺々に分けられました。』などとあります。 |
お寺の資料によると
『昭和20(1945)年8月6日原爆により本尊など悉く焼失してしまい、無住でしたが、清岸寺住職が昭和25(1950)年4月より妙慶院住職も兼務し、昭和29(1954)年10月30坪の木造本堂を再興しました。昭和52(1977)年4月SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)造4階建のビル(2階和順講堂、3階本堂など、4階庫裡、1階貸事務所)を新築。同(1977)年清岸寺とともに落慶式が営まれました。』とありました。 |
説明板にある被爆した福島正則の母・照雲院、妹・大雲院の墓標が現存するとありますが、昭和53(1978)安佐町鈴張に移されたそうです。 |
ふれがしら
触頭
(觸頭) |
1)室町時代、京都の町組で、上京13の町組を親町、その他を枝町とした、親町のこと。
奉行の命令を枝町に伝達した。
(2)江戸時代、寺社奉行の命令を配下の寺院に伝達し、
また、配下の寺院からの訴願を奉行に伝えるのを役とした寺。 |
たいしゅ
太守 |
1)平安時代以後、親王の任国と定められていた上総・常陸・上野の3か国の守(かみ)の称。
(2)一般に、幕府の高官や領主のこと。江戸時代には、国持大名の俗称。 |
はいる
配流 |
はいりゅう。
流罪に処すること。島ながし。配謫(はいたく)。流刑(るけい)。 |
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平和大通りに面した前面がカーテンウォールの近代的ビルがお寺である事よりテナントとして入居している住宅メーカーの建物かなと(わたしは)思っていたのです。
東北隅に設置の説明板を読む事もなかったのですが、読むと(知新集にも掲載ある)古い歴史のお寺ということがわかりましたので、撮影しこの頁を編集しました。 |
11.02.17裕・記編集 |