(安芸武田) |
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初代 |
武田氏信: |
(?-1394?)
(1312-1380) |
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父の信武が戦功により安芸の分郡守護職を与えられたとき、氏信が安芸に赴いて分家し、安芸武田氏の創始者となった。
官位:刑部少輔・兵庫頭。伊豆守・安芸守護。従四位下。
1368(応安元)年、幕命により守護職を解任され、安芸銀山城に拠っている。 |
二代 |
武田信在: |
(?-?)
(1352-1403) |
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氏信が天授5(1379)年に隠居したため、佐東郡の守護職を相続した。
伊豆守・治部少輔。従四位下。 |
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父は第2代当主武田信在。
第4代当主武田信繁は弟(または子)。伊豆守・治部少輔。従四位下。
安芸佐東郡守護、安芸山県郡守護を務めた。 |
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室町時代の武将で、安芸武田氏の4代当主。安芸国分郡守護。1389(元中6)年8月1日生まれという説もある。安芸武田氏2代当主武田信在の子で、安芸武田氏6代当主元綱の父。若狭武田氏の初代当主信栄・2代当主信賢・3代当主国信らの父。
1430年頃安芸国の佐東郡・山県郡・安南郡の3郡の守護職を務めていた。
1447(文安4)年大内氏が安芸に侵攻、安芸武田軍と大内軍が衝突する。 |
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室町時代の守護、若狭国武田氏の第2代当主である。安芸武田氏の武田信繁の次男、母は武田信栄の娘。兄に武田信栄。(家系には異説があります)。1419(応永26)年生まれという説もあり。
治部少輔・大膳大夫。陸奥守・従四位下。安芸・若狭守護。
兄の信栄に従い、6代将軍足利義教(1394-1441)の命による一色義貫(1400‐1440)暗殺の際には行動を共にした。
1440(永享12)年兄の信栄が病死で家督を継いだ。
1441(嘉吉元)年義教が家臣の赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱が起こると、信賢は幕命に従い赤松氏討伐軍に従軍する。若狭において一色氏の残党などによる一揆が発生したため、軍を若狭に返して一揆鎮圧に当たったという。
1467(応仁元)年足利将軍家の家督争いなどから応仁の乱が起こると細川勝元(1430-1473)率いる東軍に属して西軍の一色氏と戦った。また上洛して、京都においても西軍の山名軍と戦っている。
1469年4月には丹後に攻め入って一色義直(?−1498)を圧迫したが、1471(文明三)年6月2日病死。 |
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安芸武田氏当主武田信繁の四男。安芸の守・佐東銀山城主。武田元繁の父。
1467年からの応仁の乱では、大内氏との対立関係から東軍の細川方に属し、元網の兄武田信賢は国信・元網を率いて赤松政則(1455‐1496)らとともに主力として市街戦を展開した。
しかし東軍の敗北が続くと、西軍側の毛利氏らの誘いに乗り、元綱は無断で大内方に転じた。それと前後して当主信賢が病死し、その弟である国信が当主となる。
武田元綱が惣領家を裏切り大内方に転じたのは、佐東銀山城に拠り、父信繁から受け継いだ分国守護代から脱却して、惣領家からの独立を画策していたためだと考えられる。その後、元綱は国信と和解し、安芸分国の経営を任されたものの、分国守護職は国信が掌握していた。
1498(明応7)年の大内義興の安芸国侵攻では息子元繁とともに果敢に戦い、これを撃退して領国の保持に成功する。しかし大内氏の圧迫は元網を終生悩ませ続け、この悩みは安芸武田氏滅亡まで続くこととなる。1505(永正2)年病死。 |
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武田元綱の嫡子。安芸の佐東・山県・安南の分郡守護(若狭武田氏の安芸分郡守護代として)。太郎左衛門。官位:刑部少輔・安芸守。
1493年明応の政変が起き、管領細川政元(1466-1507)が室町幕府将軍足利義稙(1466-1523)を追放、新将軍として足利義澄(1480-1511)を擁立。京を逐われた義稙は大内義興(1477-1528)を頼って山口に下向することとなる。この政変の混乱に乗じて大内氏が武田領へ侵攻を開始し、さらに家臣の温科国親が元繁に背くなど武田家中は大混乱となる。熊谷膳直の働きで国親の反乱は鎮圧されるが、結果的に元繁は大内氏に帰順を余儀なくされる。
1508年大内義興は足利義稙を奉じて上洛軍を起こし、武田元繁もこれに従い上洛の途についた。
一方で在京していた若狭武田氏当主武田元信は、足利義澄との密接な関係を維持。これ以後、安芸武田氏は若狭武田氏から完全に独立することとなる。
大内義興は上洛後、足利義稙を将軍職に復帰させると、管領代として京都に駐留。元繁もこれに従い駐留を続けることとなる。 その後、厳島神主家で後継者を巡って内訌が発生。大内義興は内訌の鎮圧のため武田元繁を帰国させる。
1517年ついに有田城攻略の軍を起こすこととなる。元繁は陣を築き熊谷元直を配置、自らは主力を率いて有田城を攻撃。熊谷元直率いる武田軍は毛利・吉川連合軍と戦端を開くも、元就(1497-1571)の見事な用兵により壊滅、元直は討死という燦々たる敗北を喫した。
敗戦の報に激昂した元繁は、自ら軍を率いて毛利・吉川連合軍を攻撃。優勢に戦を進めるも又打川を渡る際に流れ矢に射抜かれ落馬、討死という悲惨な最期を遂げる。 |
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八代 |
武田光和; |
(1503?-1535?)
(1507-1540) |
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武田元繁の嫡子。武田太郎判官。官位:刑部少輔・安芸守。 生年は1507年、没年は1540年とする説もある。
父の元繁同様に親尼子の立場を貫き、大内氏や毛利氏と争った。
1524年大内義興・義隆(1507-1551)親子は3万余の大軍を率いて、武田光和の居城佐東銀山城に押し寄せ、包囲した。この事を知った尼子経久(1458-1541)は銀山城を救援するため、ただちに安芸に急行。安芸の尼子配下の国人衆にも出動を命令した。尼子軍の救援により銀山城は落ちず、大内軍は退却した。
武田光和は厳島神主家の後継者争いにも介入し、大内氏と対立した友田上野介方を支援するなど、積極的に行動したが、安芸武田氏の衰退を食い止めることはできなかった。
所領等を巡り、安芸武田氏歴代の忠臣であった熊谷氏の離反を促したことは、致命的ともいえる痛手であった。光和は熊谷信直の居城三入高松城を攻めたが、熊谷氏の守りは堅く、撤退せざるを得なくなった。再度熊谷信直の討伐を進めていた矢先に33歳の若さで嫡子を残すことなく急死。安芸武田氏の衰運は決定的となった。 |
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若狭守護武田元光の二男。武田光和の急死により、その養子として迎えられ、安芸武田氏の当主となる。官位:刑部少輔・従五位下。
重臣間で大内氏との講和についての意見対立が起き、ついには品川一党が香川氏の居城八木城を攻撃した。しかし平賀氏・熊谷氏らが香川氏に援軍を出すとの報に接した品川一党は退却。
大混乱をきたした武田氏家臣は佐東銀山城を逃亡。事態の急変に対して何の手を打つことができなかった信実も、佐東銀山城を捨て、若狭に逃亡した。
1540年尼子詮久(1514-1561)が毛利元就(1497-1571)討伐のため安芸に出陣すると、尼子詮久に安芸武田氏復興を願った。詮久はこれを受け入れ、牛尾幸清に兵2000を与え、信実とともに佐東銀山城に入城させた。
尼子詮久は郡山城を攻撃したが、攻略は遅々として進まず、翌1541(天文10)年陶隆房(1521-1555)率いる大内氏の援軍と毛利方の反撃により、詮久は無残な退却を強いられることとなる。尼子氏の敗北により再度佐東銀山城は孤立し、信実はまたもや城を捨てて牛尾幸清と共に出雲へ逃亡。
城兵の多くも逃亡した。佐東銀山城には300余の兵が籠城していたが、武田氏の重臣香川氏らは毛利氏と和睦を進め、ついに佐東銀山城は開城した。これにより安芸武田氏は終焉を迎えることとなる。 |