(不動院)恵瓊の墓、武田刑部少輔の墓、福島正則の墓、豊臣秀吉遺髪塚

  東区牛田新町の不動院墓苑に建立されている 「恵瓊の墓」、「武田刑部少輔の墓」、「福島正則の墓」、「豊臣秀吉遺髪塚」をこの頁で取り上げました。
不動院の前身は、南北朝時代、足利尊氏・直義兄弟が諸国に安国寺を建立した折、安芸国ではここに安国寺が置かれ、銀山城主武田氏の保護のもと栄えました。
武田氏の滅亡とともに寺運も傾きましたが、毛利氏の使僧として戦国の世を生きた「恵瓊」により再興されました。彼は武田氏の一族で、武田信実の遺児であるともいわれているようです。
牛田に住んでいて不動院へは何度か訪れてはいますが、お寺裏手の小高い墓苑に安国寺恵瓊、武田刑部少輔の墓、福島正則の(供養)墓、豊臣秀吉の遺髪塚が建立されていることは知りませんでした。
2006年10月のまちづくり交流ウォークのときに教えていただき撮影しました。
武田刑部少輔の墓が武田氏の誰かがわからずなかなか編集が進みませんでしたが。
05.07.30裕・記編集
安国寺恵瓊の墓

06.10.21.撮影

06.10.21.撮影
中興開山恵瓊の墓 (墓説明碑建立:平成11年2月吉日)
安国寺恵瓊(あんこくじえけい:1539?-1600)
安土桃山時代の臨済宗の僧。安芸(沼田郡)の人。字(あざな)は瑶甫(ようほ)。
安芸国の竺雲等連(じくうんとうれん=禅僧)に見出され東福寺塔頭(たっちゅう)退耕庵の主となり安国寺を兼帯。1582(天正10)年豊臣秀吉の高松城攻めの和議使をつとめてから、秀吉と毛利輝元の信任をを得て寺領を与えられ、安国寺・東福寺を再興。1592(文禄元)年文禄の役には従軍僧として朝鮮に渡った。1598(慶長3)年東福寺224世の席を継ぎ、翌年退耕庵を造営し、さらに南禅寺の公帖(=禅宗五山の住持の辞令)を受ける。1600(慶長5)年関ヶ原の戦いが起こると、毛利氏とともに石田三成に応じて徳川家康と戦ったが敗れて京都・建仁寺に潜んでいるところを捕らえられ同(1600)年10月1日京都六条河原で斬首され、三条河原に梟首(きょうしゅ)された。
   関連頁:(国泰寺)安国寺恵瓊遺髪塚
武田刑部少輔の墓
  武田刑部少輔の墓とあるが武田の誰なのか知りたく思ったのです。
安芸武田氏を調べていくうちに八代武田光和の官職が刑部少輔だったことから光和の墓か?わたしはおもったのですが、その前の元繋も官職は刑部少輔のようで・・・図書館に行って安芸武田氏に関する資料を探してみました。
武田信実の墓であろうということがわかりました。
まず、祇園公民館が昭和59年発行した「安芸武田氏」をみると、関係寺社の中に『・・・(不動院の)このお墓「伝武田刑部少輔墓」の記述があり、裏山墓地の大きな五輪塔を武田刑部少輔(信実)のものと伝えるのは当寺と武田氏との関係を背景とするものであろう。』とありました。
次に、官職について、安古市郷土史会の堤田英雄氏著「武田氏の系譜と戦歴」をみると『・・・(武田)信実、天文10(1541)年5月13日銀山落城で敗走。若狭元光の二男。銀山城主・養子。刑部少輔・従五位下。大永4(1524)年7月18日〜弘治元(1555)年10月6日。』とありました。
05.07.30裕・記編集

06.10.21.撮影
武田刑部少輔の墓=武田信実(安芸武田最後の城主)
安芸武田氏は、(甲斐)五代武田信光の時代に承久の乱の戦功によって鎌倉幕府より安芸守護を任じられたことからはじまります。任命当初は守護代を派遣していましたが、後に(甲斐)七代武田信時の時代に元寇に備えて安芸国に佐東銀山城を築き本格的な領土支配に乗り出すようになりました。
南北朝時代に(甲斐)十代武田信武が足利尊氏に属して戦功を上げた結果、甲斐国と安芸国の守護を任命され、信武次男・武田氏信(?−1394)が安芸守護として分家しました。この氏信が安芸武田氏の初代となります。
しかし氏信は1368(応安元)年に幕府によって守護職を解任され、以降安芸守護は今川氏や細川氏等の足利一門が担いましたが安芸武田氏自体は銀山城を中心とした分郡守護として存続していきます。
大内氏とは対立関係にあり、応仁の乱でも東軍方について参戦、以降戦国時代まで尼子氏らと組んで大内氏に対抗しましたが、安芸武田氏九代武田信実(1524-1555)の時代、1541(天文10)年6月に大内氏の命を受けた毛利元就によって銀山城は落城し滅亡しました。
(安芸武田)
初代
武田氏信:
(?-1394?)
(1312-1380)
父の信武が戦功により安芸の分郡守護職を与えられたとき、氏信が安芸に赴いて分家し、安芸武田氏の創始者となった。
官位:刑部少輔・兵庫頭。伊豆守・安芸守護。従四位下。
1368(応安元)年、幕命により守護職を解任され、安芸銀山城に拠っている。
二代
武田信在:
(?-?)
(1352-1403)
氏信が天授5(1379)年に隠居したため、佐東郡の守護職を相続した。
伊豆守・治部少輔。従四位下。
三代
武田信守:
(?-?)
(?-1418)
父は第2代当主武田信在。
第4代当主武田信繁は弟(または子)。伊豆守・治部少輔。従四位下。
安芸佐東郡守護、安芸山県郡守護を務めた。
四代
武田信繁:
(1390- 1465)
室町時代の武将で、安芸武田氏の4代当主。安芸国分郡守護。1389(元中6)年8月1日生まれという説もある。安芸武田氏2代当主武田信在の子で、安芸武田氏6代当主元綱の父。若狭武田氏の初代当主信栄・2代当主信賢・3代当主国信らの父。
1430年頃安芸国の佐東郡・山県郡・安南郡の3郡の守護職を務めていた。
1447(文安4)年大内氏が安芸に侵攻、安芸武田軍と大内軍が衝突する。
五代
武田信賢:
(1420-1471)
室町時代の守護、若狭国武田氏の第2代当主である。安芸武田氏の武田信繁の次男、母は武田信栄の娘。兄に武田信栄。(家系には異説があります)。1419(応永26)年生まれという説もあり。
治部少輔・大膳大夫。陸奥守・従四位下。安芸・若狭守護。
兄の信栄に従い、6代将軍足利義教(1394-1441)の命による一色義貫(1400‐1440)暗殺の際には行動を共にした。
1440(永享12)年兄の信栄が病死で家督を継いだ。
1441(嘉吉元)年義教が家臣の赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱が起こると、信賢は幕命に従い赤松氏討伐軍に従軍する。若狭において一色氏の残党などによる一揆が発生したため、軍を若狭に返して一揆鎮圧に当たったという。
1467(応仁元)年足利将軍家の家督争いなどから応仁の乱が起こると細川勝元(1430-1473)率いる東軍に属して西軍の一色氏と戦った。また上洛して、京都においても西軍の山名軍と戦っている。
1469年4月には丹後に攻め入って一色義直(?−1498)を圧迫したが、1471(文明三)年6月2日病死。
六代
武田元綱:
(1441-1505)
安芸武田氏当主武田信繁の四男。安芸の守・佐東銀山城主。武田元繁の父。
1467年からの応仁の乱では、大内氏との対立関係から東軍の細川方に属し、元網の兄武田信賢は国信・元網を率いて赤松政則(1455‐1496)らとともに主力として市街戦を展開した。
しかし東軍の敗北が続くと、西軍側の毛利氏らの誘いに乗り、元綱は無断で大内方に転じた。それと前後して当主信賢が病死し、その弟である国信が当主となる。
武田元綱が惣領家を裏切り大内方に転じたのは、佐東銀山城に拠り、父信繁から受け継いだ分国守護代から脱却して、惣領家からの独立を画策していたためだと考えられる。その後、元綱は国信と和解し、安芸分国の経営を任されたものの、分国守護職は国信が掌握していた。
1498(明応7)年の大内義興の安芸国侵攻では息子元繁とともに果敢に戦い、これを撃退して領国の保持に成功する。しかし大内氏の圧迫は元網を終生悩ませ続け、この悩みは安芸武田氏滅亡まで続くこととなる。1505(永正2)年病死。
七代
武田元繁::
(1467-1517)
武田元綱の嫡子。安芸の佐東・山県・安南の分郡守護(若狭武田氏の安芸分郡守護代として)。太郎左衛門。官位:刑部少輔・安芸守。
1493年明応の政変が起き、管領細川政元(1466-1507)が室町幕府将軍足利義稙(1466-1523)を追放、新将軍として足利義澄(1480-1511)を擁立。京を逐われた義稙は大内義興(1477-1528)を頼って山口に下向することとなる。この政変の混乱に乗じて大内氏が武田領へ侵攻を開始し、さらに家臣の温科国親が元繁に背くなど武田家中は大混乱となる。熊谷膳直の働きで国親の反乱は鎮圧されるが、結果的に元繁は大内氏に帰順を余儀なくされる。
1508年大内義興は足利義稙を奉じて上洛軍を起こし、武田元繁もこれに従い上洛の途についた。
一方で在京していた若狭武田氏当主武田元信は、足利義澄との密接な関係を維持。これ以後、安芸武田氏は若狭武田氏から完全に独立することとなる。
大内義興は上洛後、足利義稙を将軍職に復帰させると、管領代として京都に駐留。元繁もこれに従い駐留を続けることとなる。 その後、厳島神主家で後継者を巡って内訌が発生。大内義興は内訌の鎮圧のため武田元繁を帰国させる。
1517年ついに有田城攻略の軍を起こすこととなる。元繁は陣を築き熊谷元直を配置、自らは主力を率いて有田城を攻撃。熊谷元直率いる武田軍は毛利・吉川連合軍と戦端を開くも、元就(1497-1571)の見事な用兵により壊滅、元直は討死という燦々たる敗北を喫した。
敗戦の報に激昂した元繁は、自ら軍を率いて毛利・吉川連合軍を攻撃。優勢に戦を進めるも又打川を渡る際に流れ矢に射抜かれ落馬、討死という悲惨な最期を遂げる。
八代
武田光和
(1503?-1535?)
(1507-1540)
武田元繁の嫡子。武田太郎判官。官位:刑部少輔・安芸守。 生年は1507年、没年は1540年とする説もある。
父の元繁同様に親尼子の立場を貫き、大内氏や毛利氏と争った。
1524年大内義興・義隆(1507-1551)親子は3万余の大軍を率いて、武田光和の居城佐東銀山城に押し寄せ、包囲した。この事を知った尼子経久(1458-1541)は銀山城を救援するため、ただちに安芸に急行。安芸の尼子配下の国人衆にも出動を命令した。尼子軍の救援により銀山城は落ちず、大内軍は退却した。
武田光和は厳島神主家の後継者争いにも介入し、大内氏と対立した友田上野介方を支援するなど、積極的に行動したが、安芸武田氏の衰退を食い止めることはできなかった。
所領等を巡り、安芸武田氏歴代の忠臣であった熊谷氏の離反を促したことは、致命的ともいえる痛手であった。光和は熊谷信直の居城三入高松城を攻めたが、熊谷氏の守りは堅く、撤退せざるを得なくなった。再度熊谷信直の討伐を進めていた矢先に33歳の若さで嫡子を残すことなく急死。安芸武田氏の衰運は決定的となった。
九代
武田信実:
(1524-1555)
若狭守護武田元光の二男。武田光和の急死により、その養子として迎えられ、安芸武田氏の当主となる。官位:刑部少輔・従五位下。
重臣間で大内氏との講和についての意見対立が起き、ついには品川一党が香川氏の居城八木城を攻撃した。しかし平賀氏・熊谷氏らが香川氏に援軍を出すとの報に接した品川一党は退却。
大混乱をきたした武田氏家臣は佐東銀山城を逃亡。事態の急変に対して何の手を打つことができなかった信実も、佐東銀山城を捨て、若狭に逃亡した。
1540年尼子詮久(1514-1561)が毛利元就(1497-1571)討伐のため安芸に出陣すると、尼子詮久に安芸武田氏復興を願った。詮久はこれを受け入れ、牛尾幸清に兵2000を与え、信実とともに佐東銀山城に入城させた。
尼子詮久は郡山城を攻撃したが、攻略は遅々として進まず、翌1541(天文10)年陶隆房(1521-1555)率いる大内氏の援軍と毛利方の反撃により、詮久は無残な退却を強いられることとなる。尼子氏の敗北により再度佐東銀山城は孤立し、信実はまたもや城を捨てて牛尾幸清と共に出雲へ逃亡。
城兵の多くも逃亡した。佐東銀山城には300余の兵が籠城していたが、武田氏の重臣香川氏らは毛利氏と和睦を進め、ついに佐東銀山城は開城した。これにより安芸武田氏は終焉を迎えることとなる。
たけだしんげん
武田信玄
(1521-1573)
戦国時代の武将。名は晴信。信玄は法号。父、信虎を追放して家督を継ぎ、信濃に進出。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次、三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが、翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ、「信玄家法」を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。
たけだのぶかど
武田信廉
(1532-1582)
戦国時代の武将。武田信玄の同母弟。官位:刑部少輔。武田信虎の4男として生まれる(生年は1528(享禄元)年説もある)。
1561(永禄4)年第4次川中島の戦いにおいて次兄・武田信繁が戦死したため、親族筆頭となり、騎馬80騎持の大将となった。戦時には、後方守備や本陣守護などを務めている。1570(元亀元)年高遠城主に任じられた。
1582(天正10)年2月織田信長による武田征伐が始まると、信長の嫡男・織田信忠が率いる織田軍が先鋒として侵攻する。信綱はたいした抵抗もせず、高遠・大島両城を捨てて甲斐へ退却。戦後、織田軍の執拗な残党狩りによって捕らえられた信廉は、勝頼自刃から13日を経た1582年3月24日、甲斐府中の立石相川左岸にて斬首された。
ぎょうぶ  しょう
刑部=刑部省
律令制による太政(だいじよう)官の八省の一つ。
刑罰・裁判をつかさどった役所。うたえのつかさ。うたえただすつかさ。
しょう
少輔
律令制で、八省の次官。大輔(たいふ)に次ぐ官。すないすけ。しょうふ。しょうゆう。
福島正則の墓

06.10.21.撮影
福島正則の墓
福島正則 (ふくしままさのり)  1561-1624
  安土桃山・江戸初期の武将。尾張の人。幼名、市松。通称は左衛門大夫。号は高斎。
幼少(1578年=天正6年)から豊臣秀吉に仕える。1583(天正11)年賤ヶ岳の戦での勇戦が知られ、俗に賤ヶ岳の七本槍の筆頭、小牧・長久手の戦い、朝鮮出兵(1592年)などで活躍。1585(天正13)年4月伊予国今治10万石の城主、7月従五位下左衛門大夫。1595(文禄4)尾張国清洲24万石城主。1597(慶長2)年侍従。1600(慶長5)年9月15日関ヶ原の戦いでは徳川方先鋒。1600(慶長5)年11月安芸備後両国広島49万8820石の城主。1602(慶長7)年少将。城主になってから城下町の整備も積極的に行い、西国街道を城下の中心に引入れ、それと分岐する形で雲石街道の起点をもうけ街道筋に町人町を配置、商人を集住させた。1617(元和3)年参議従四位下(一説には従三位)。1619(元和5)年6月城無断修築をとがめられ所領没収となり、陸奥国津軽に移るを命ぜられるが、信濃国河中島(川中島)4万5千石に移され、高井野に蟄居した。1624(寛永元)年7月3日高井野邑にて卒(病死)。
豊臣秀吉遺髪塚

06.10.21.撮影
豊臣秀吉遺髪塚
豊臣秀吉(とよとみひでよし)  1536-1598 
  安土桃山時代の武将。尾張中村の人。織田信長の足軽木下弥右衛門の子。幼名日吉丸。初名木下藤吉郎。のち羽柴秀吉。
織田信長に仕え、軍功によって重用され、筑前守となる。本能寺の変後、明智光秀を討ち、四国・九州・関東・奥羽を征して1590(天正18)年天下を統一。この間、1585(天正13)年関白、翌(1586)年豊臣姓を賜って太政大臣となり、1591(天正19)年関白を養子秀次に譲り太閤と称した。また、検地・刀狩りを実施、兵農の分離を徹底し、幕藩体制に至る基礎を築いた。文禄・慶長の役で朝鮮に出兵、戦果があがらないまま、伏見城で病没。
   関連頁:(国泰寺)豊臣秀吉遺髪塚 



「広島ゆかりの人たちのお墓」編



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不動院
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不動院鐘楼他
(不動院)十三佛
(不動院墓苑)
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   福島正則の墓
   豊臣秀吉遺髪塚
(番外)不動院の絵馬


「牛田・二葉の里附近」編





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