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東区東山町の才蔵寺に建立されている「可児才蔵の墓」です。 |
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可児才蔵 (かに さいぞう:1544*1-1613) |
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。美濃国可児郡に生まれる。名は吉長、晩年に剃髪して才入と称し、竹葉軒と号した。
前田利家(1538-1599)に仕え、しばしば武功をたて勇名をはせた。のち福島正則 (1561-1624)に仕えた。宝蔵院流十字槍の達人といわれ、1600(慶長5)年関ヶ原の合戦では、敵の首を討ち取っては、ササの葉を目印としてつけ、後日の目印とした事からササの才蔵と称された。1613(慶長18)年広島で没した。
墓は才蔵寺にある。 |
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*1 |
資料とウィキペディアには、1544(天文23)年とありますが、
お寺の由来板には1543(天文22)年となっています。 |
*2 |
墓石には、慶長18(1613)年11月24日となっています。
資料には11月21日となっています。
ウィキペディアには、慶長18年6月24日(1613年8月10日)となっています。 |
*3 |
墓石には、尾州(尾張国の別名)葉栗(はぐりぐん)郡楽典郷となっていますが、資料とウィキペディアには、美濃国可児郡となっています。 |
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国語辞典を引いたのですが「干時」という言葉を(わたしは)探せませんでした。
漢和辞典を引くと、「干(カン)と干(ウ)は別字」とあります。どちらも熟語としての干時はありませんでした。
干(カン)には[2ハに]尽きるとあります、干潮カンチョウ=ひきしおという言葉がありますので、時の引き潮≒生の時が引いて行くつまり没年かなとおもうのですが、(わたしには)読み方も含めてよくわからない言葉でした。 |
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2011年暮になって、『干時』について教えていただきました。
この時の「于」は漢文の置き字というもので、『時に』ということだそうです。
漢和辞典で「于」を引くと『Aに、於の本字。句中の助字(イ)目的と動作との関係を示す(ロ)場所と動作との関係を示す。』とありました。漢文にも疎いままこの歳になりました、ご教授ありがとうございました。 |
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2005年才蔵寺の頁に包括していましが、2010年になりましたが可児才蔵の墓としてこの別頁を再編集しました。
生誕年、没日が資料とお寺設置の由来板と違っていますので、今回脚注を付けました。 |
10.06.06再編集 09.07.22裕・記編集 |