景友碑(串本康三碑)

  東区二葉の里の明星院に建立されている「串本康三碑」です。
※本堂の横に建立されていましたが、2014年みると東側路地の方に移設されていました。
前衆議院議員串本康三君墓誌
芸南奥海田*1)の人。文久3(1863)年9月14日生まれ。大志あり民権を主張し帝国議会の開設に力を尽した後、住居を広島に移して、市会、県会議員に当選しました。衆議院議員4回、勲四等に叙せられる。
節操松柏の如く、広島県立憲政友会の長老として重きをなそうとするやさき、大正8(1919)年1月21日逝かれました。君の温容をまた視ることができず追慕の余り同志相謀り一碑を建立して功績を不朽に伝えんとするものです。
昭和2(1927)年3月15日 衆議院議員正四位勲二等 大岡育造 篆額
衆議院議員正五位勲三等 望月圭介 書
*1) 安芸広島藩領時代は奥海田村でした。
1889(明治22)年4月1日町村制の施行時に、安芸郡奥海田村。
1952(昭和27)6月1日町制を施行、(安芸郡)東海田町と改称。
1956(昭和31)9月30日海田市町+東海田町=(安芸郡)海田町となり現在に至る
資料をみていると、常夜燈・墓石・五輪塔・石碑などが被爆したものと記述がありました。
爆心地から≒1,800m   被爆当時町名も二葉の里
2005年交流ウォークのときに、明星院本堂横に建立されているこの景友碑に気が付いていましたが、撮影していませんでした。今(2008)回カナ交りの碑文を読んでみました。
(上記はわたしが理解したものを記しましたので原文のままではありません)。
景友碑の景友を国語辞典を引いても出てきません、『「景」を漢和辞典で引けば(5)したう=慕。あおぐ。景慕。』とあり友を慕うという意味にとれるのかなと思いました。
この碑は昭和2(1927)年建立ですので、被爆した石碑と思いました。
2014年暮れ久しぶりに立ち寄りお参りした後、本堂横の「伴資健翁之碑」「香川南浜先生碑」「景友碑」を久しくみていなかったなと行ってみたのです。そこには並んでいた碑がなかったのです。
そんなに広くない境内をみましたがなかったので隣の墓苑の方に移設されたのかなと思って路地に出た時みたのが新しく並んで整備されていた上記碑たちでした。
碑の移設に伴って、“串本康三(くしもと こうぞう)”の説明板が設置されています。
その中に、『安芸郡海田の出身。生年不詳』とあります。
現在の安芸郡海田町沿革を今回上記に追記しました。
生年不詳ではなく、碑文を読めば{「1863-1919」ということがわかります。
 16.12.10.再編集   08.10.13裕・記編集

08.09.01.撮影
広島市東区二葉の里2-6-25 (明星院境内に建立)

08.09.01.撮影
移設前の本堂横に建立されていた当時
  (画像では写っていませんが)「伴資健翁之碑」   「景友碑」  「南濱香川先生碑」 「加藤種之助墓碑」 

14.12.11.撮影
(移設、新しく整備されていました)
「加藤種之助墓碑」  「景友碑」  「伴資健翁之碑」  「南濱香川先生碑」

08.06.30.撮影

08.06.30.撮影

14.12.11.撮影
碑文は読めました(上記大要) 移設された後 (この画右が)景友碑



「その他」編
(広島ゆかりの人物関連碑など)


「牛田・二葉の里附近」編・全体



広島ぶらり散歩へ
明星院
(境内にある)被爆樹木
イチョウ
ソテツ
マツ
(本堂内陣)赤穂義士木像
(境内に建立)伴資健翁之碑
(境内に建立)香川南浜先生碑
(境内に建立)景友碑(串本康三碑)
(境内に建立)加藤種之助墓碑
(境内に建立)八木新兵衛翁銅像
(境内に建立)松田多朗句碑
田中久吉作:(明星院)仁王像
松本明慶作:(明星院)雷神・風神像
(境内の)明星院七福神
二葉山山麓七福神毘沙門天





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