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中区白島九軒町の宝勝院墓苑に建立されている「大田洋子被爆の地・碑」です。 |
大田洋子被爆の地 |
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い
鶏
が
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元
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屍
の
街
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10.08.21.撮影 |
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『広島で被爆した作家・大田洋子(1903-1963)の代表作「屍(しかばね)の街」の一節を刻んだ文学碑を宝勝院の前住職・国分良徳(くにわけよしのり:81歳)師が建立した』という事を2010年7月30日新聞報道で知りましたので撮影に行ったのです。
*碑は、横:≒120cm 縦:≒90cmだそうです。
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「屍の街」は、大田洋子の原爆被爆後の第1作で、広島市内ここ白島で被爆し、川のほとりで何日か野宿した後、佐伯町・玖島村へ逃げのびるまでの惨状と恐怖の記録文学です。 |
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国分さんは助かったが、「母親は幼い弟を抱いたまま即死、7歳だった妹も亡くなった」こと、被爆2日後の朝、「避難していた河原からお寺に戻ると飼っていた2羽の鶏の内1羽が生きていた」その時のことが作品の中にあったことからこの碑の建立を思い立ったそうです。「屍の街」では、五つの男の子となっていますが、七つの女の子だったことから事実にあわせて碑では訂正されています。
被爆時、大田は、宝勝院隣家を借りていた妹宅にいて被爆した事から「大田洋子被爆の地」としたそうです。 |
一度足を延ばして撮影に行ったのですが、墓苑の何処に建立されているのか分からず、墓参りに来られている方にも尋ねたのですが、大田洋子文学碑の事を御存じなく、わたし自身も時間がなく、さして大きくない墓地ですので、次回はじっくり探そうと思っていたのです。
(2010年)8月21日になりましたが、今度は墓地の隅からじっくり探すぞと思っていると、『←大田洋子文学碑』と書かれた小さな立て札が立っていましたので、場所はすぐに分かりました。 |
2015年訪ねましたので、撮影しこの頁を更新しました。5年の月日で立札の文字がわかりにくくなっていましたが。 |
15.05.01.更新 10.09.17裕・記編集 |