歴史講演会「安芸国分寺跡の調査から」

  安芸郡海田町畝で催された佐竹昭先生の歴史講演会「安芸国分寺跡の調査から」を取り上げました。
2006年2月12日海田町・ふるさと館で行われた『安芸国分寺跡の調査から』という広島大学佐竹昭先生の歴史講演会を聴いたのです。
考古学を専門的に勉強したことはないわたしですが、佐竹先生の話を聴き安芸国分寺跡を訪れてみようと思ったのでした。
資料は、佐竹先生のレジメほかを参考にしました。 06.07.01裕・編集

06.02.22.撮影
東広島市西条町吉行
2000年に安芸国分寺跡出土の木簡と墨書土器調査から・・・
出土の木簡の年代が天平勝宝2(750)年であった。
同時に出土した製材片が年輪年代測定で747年伐採とわかった。
出土した墨書土器に『斎会』※、『安居』の文字があった。 齋會
さいえ
斎会
僧尼を招いて食事を供する法会(ほうえ:説法・読経・修法などの仏事を行い、死者を供養したりするための集会)。
あんご
安居
仏教語:梵 vrika 雨期の意。インドの夏は雨期で、僧がその間外出すると草木虫などを踏み殺すおそれがあるとして寺などにこもって修行した雨安居に始まる。
1)僧が夏に一定期間、一か所にこもって修行すること。
元来は陰暦4月16日(日本では15日)から7月15日までの三か月間行われ、この間を一夏(いちげ)という。
史料によると(日本では)国ごとに任命された国師の指導のもと諸国の国分寺で金光明最勝王経の講説が行われることになっているが、その創始がいつか?本当に実施したか?を証明する資料は明確でなかった。
(∴国分寺で何をしたか本当のところはわかっていなかった)
2000年に安芸国分寺跡出土の木簡と墨書土器からわかってきたこと。
出土の品から国分寺建立間もない頃から、朝廷は伝統的な戒律を尊重し、安居の実施を重視していた。
国分寺建立の詔にみえる「月の半に至る毎に戒羯磨を誦せよ」は、四分律系(小乗戒)の戒本と羯磨を誦すとみるのが有力になってきた。
2 聖武天皇が国分寺建立の詔そのものが現存せず、二次的に編纂された歴史書「続日本紀」や法律書「類聚三代格」に収められて伝わっているので、国分寺の建立時期についての論争がある。
安芸国分寺の出土から主要伽藍は天平勝宝2(750)年ころには整備されていたと推測され、他の国分寺の場合にもそうかもしれないと・・・
天平19(747)年の督促令が効果的であったのでは。
かい
1)いましめ。訓戒。
3)〔梵語 la〕仏教の信者が守るべき行動の規範。戒律。禁戒。
こんこうみょうさいしょうおうきょう
金光明最勝王経
中国、唐の義浄訳の「金光明経」の名称。
大乗経典の一つ。漢訳には、唐の義浄訳(金光明最勝王経、十巻)、北涼の曇無讖(どんむしん)訳(四巻)、隋の宝貴らの訳(合部金光明経、八巻)がある。
国家護持の経典として尊重された。最勝会はこの経典による法会。
しぶんりつ
四分律
部派仏教の法蔵部の律。漢訳は後秦の仏陀耶舎訳で、六十巻。四部から成り、律の代表的な教典。別称、曇無徳(どんむとく)律。
ぶはぶっきょう
部派仏教
釈迦の死後百年頃から数百年の間に成立した二十の部派による仏教。
初め保守的な上座部と進歩的な大衆部に分かれ、のちに前者の系統が十一部、後者の系統が九部となった。
これら二十の部派を小乗仏教というのは大乗仏教側からの批判的呼称。
かつま
羯磨
〔梵語 karman〕(天台宗・浄土宗など一般には「かつま」と読むが、真言宗・南都諸宗では「こんま」と読む)
1)行為。業(ごう)。所作。
2)受戒(仏教徒が出家や在家などの立場で、守るべき戒を受けること)・懺悔の作法。
3)「羯磨金剛(三叉の金剛杵を二本、十文字に組み合わせた密教の法具)」の略。
関連略年表
701 大宝元年8月 大宝律令(律6巻、令11巻。刑部オサカベ親王・藤原不比等らの撰)完成。
702 大宝2年2月 諸国に国師(朝廷から諸国に遣わされ、寺院や僧尼の監督、経典の講説などにあたった)を任ず。
737 天平9年3月 国毎に釈迦仏像・挟侍菩薩を造り、大般若経を写すよう命じる。
天平9年11月 畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)・七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に神社を造らしむ。
740 天平12年6月 国毎に法華経10部を写し、七重の塔を建てるように命じる。
天平12年6月 藤原広嗣の乱。10月伊勢行幸。12月山城恭仁宮に移る。
741 天平13年正月 故藤原不比等家の封戸3000戸(50戸×60国)を諸国の施入。
天平13年 3月24日国分寺・国分尼寺造立の詔 (類聚三代格では2月24日)。
743 天平15年10月 近江国紫香楽宮(しがらきのみや)にて盧舎那仏金銅像造立の詔を発する。
紫香楽宮近くの甲賀寺にて大仏造立が開始される。
744 天平16年7月 諸国正税国別4万束を割き、利息を僧尼両寺の造営に充てる。
天平16年10月 国師に国分寺の検校を命ず。
745 天平17年 恭仁宮、紫香楽宮、難波宮を転々としていた都が5年ぶりに平城京に戻る。
大仏造立も今の東大寺の地であらためて開始される。
747 天平19年11月 (国分寺の)造営進捗せず郡司が協力して3年以内に塔・金堂・僧坊を造り終えれば、子孫の郡領任用を約束する。僧寺100町、尼寺50町。
748 天平20年8月 造営に目途、諸国夏安居に法華経・最勝王経を講じるよう命ず(東大寺要録)。
749 天平勝宝元年 大小国師を任じ、諸国安居に法華経・最勝王経を講じるよう命ず(東大寺要録)。
天平勝宝元年7月 諸国金光明寺・法華経の墾田上限をそれぞれ1000町、400町とする。
750 天平勝宝2年4月 安芸国分寺跡出土木簡・墨書土器(安居・斎会)
752 天平勝宝4年4月 東大寺盧舎那大仏開眼供養会(魂入れの儀式)が盛大に開催される。
756 天平勝宝8年6月 天平勝宝9年5月の聖武天皇一周忌までに国分寺に仏像・仏殿、塔を造るように命ず。
聖武天皇
孝謙天皇



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