(五日市・海老山の宍戸氏家来)三十人塚

  1555(天文24)年の厳島合戦の時、ここ海老山に砦を築いていた毛利方の宍戸孫六が陶軍に攻められて家来三十人が死んだと云われ、それを悼んで建てられた墓と伝えられるものが残っています。
宍戸孫六が如何なる人物だろうかとわたしは思ったのです・・・名前からして厳島合戦当時の宍戸氏当主が隆家(が孫の一番?)で、隆家の祖父・元家の6番目が宍戸孫六かなと思ったのですが・・・よくはわかりません。
廿日市でボランティアガイドされているU氏に「戦いの後海に漂流した戦での死者を引き上げて葬ったという話を聞いたことがあるということや、このような丁寧な墓標を立てていることから宍戸家の武士であったのは確かでしょうが30人が1度の戦で戦死したと決められないような気もします。」というような話も聴きましたが確かなことはわからないようです。
 08.02.10裕・記編集

’07.02.07撮影
広島市佐伯区海老山町海老山公園

’07.02.07撮影
安芸宍戸氏  南北朝時代初期宍戸朝里は足利尊氏とともに上洛し、六波羅探題を落として、その功により従五位上に叙せられました。1334(建武元)年に安芸守に任ぜられ、甲立庄を賜り朝家と名を改めました。
1335(建武2)年新田義貞の軍を破って京都に攻め上った尊氏に、宍戸朝家も従って上洛。
1336(建武3)年多々良浜の戦いでは菊池武敏を大将とする九州の宮方と戦い、勝利を収めています。 安芸に移住した朝家は、柳ヶ城を築いて居城としましたが、要害の地ではなかった為、新たに居城を構える必要に迫られました。そのため可愛川※向かいの元木山に築城を計画し、五龍王を勧請して水を祈り、水を得て、ここに城を築きました。これが宍戸氏260年の居城となった五龍城(現在:安芸高田市甲田町上甲立)です。これを根拠地として、安芸宍戸氏は安芸国に勢力を築いていきました。
ごうのかわ
江の川
広島県および島根県を流れる一級水系の本流。
中国地方最大の川で、別名「中国太郎」。広島県域では可愛川(えのかわ)とも呼ばれます。
ししど たかいえ
宍戸 隆家
(1518−1592)
戦国時代の武将。毛利氏の家臣。祖父:宍戸元家(1434-1509)、父:宍戸元源(? -1542)。
宍戸氏は安芸国の国人として代々毛利家と争っていましたが、毛利元就の長女を妻として迎え、吉川元春や小早川隆景らと軍事行動を共にしました。元就、隆元からも重用され、元就は宍戸隆家を一門同様として扱うように隆元らに命じています。隆家も元就の期待に添う活躍をし、忠節を尽くしたことから、江戸時代以降も宍戸氏は一門筆頭とされたそうです。
厳島合戦  1555(天文24)年10月16日安芸国の厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦。
陶晴賢が軍を率いて厳島に上陸したのは10月6日のことで、岩国付近を出発した時の船団の規模は500艘、兵力は2万人とも3万人とも伝えられています。陶軍は厳島の塔の岡に本陣を置き、宮尾城を包囲し攻撃を開始しました。
一方の毛利軍の主力は厳島の対岸に位置する草津城(現在:広島市西区)に集結していましたが、兵力は4千人から5千人程度であったとされています。
この兵力差を埋めるために元就は狭い厳島に陶軍を誘い込み、身動きの取りにくい状況を作り出すことに成功しました。
10月15日夜半、荒天の中で草津を発った船団は二手に別れて密かに上陸を果たし、翌10月16日早朝、一斉に奇襲を仕掛けました。前夜の天候から油断があり、また戦況の変化に対応できずにいた晴賢の軍勢は総崩れとなりました。晴賢は島内に逃げ延びましたが結局島から脱出することは出来ず、大江浦付近で自刃して果てました。その後数日間戦闘が続きましたが、10月20日には毛利軍は厳島から引き上げて対岸の桜尾城(現在:廿日市市)に凱旋し、この時晴賢の首実検も行われたそうです。



海老山公園・概説


「旧・五日市町」編



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厳島合戦(概論)
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大元浦(陶晴賢上陸の地)
勝山城跡(陶軍最初の本陣地)
血仏池
包ヶ浦(毛利元就上陸の地)
(廿日市)桜尾城址
(廿日市)火立岩跡
(廿日市)陶晴賢の墓
(五日市海老山)三十人塚





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