(縮景園へ湧水導入)牛田の清水谷

  東区牛田東の現在・市民農園根際の(江戸時代の一時期)縮景園へ湧水導入したという「牛田の清水谷」です。
江戸時代、牛田山の清水谷から縮景園へ延々と竹樋を通して飲料水を引いたことがあると 交流ウォーク・藤井先生に、教えていただいたのです。
交流ウォーク牛田地区の探検隊で今回その場所を訪ねることになったのです。
(濯纓池の)水や堀貫井戸の水は飲料水や喫茶用水に不向きで(当時遠隔地のものを賞翫する風潮もあり)、文化4(1807)年牛田山の清水谷から蜒々竹樋を通じ、神田川(現呼称・京橋川)の川底は角丸によって清冷な水を導入する仕掛けを作ったそうです。浅野重晟(在位:1763-1799)時代の縮景園改修・拡張が一段落した時代で重晟は隠居の身でした。
当初は、牛田村よりの水は、村々の用水にするのが主目的で、そのついでに泉水の御慰みにということであったのが、全く泉水邸のみの水掛りとなり(質素倹約を実行したという)重晟は不快の念をもち、また、水は十分な量がなく、暑い時は水に臭気があり、その上所々に破損が生じ修繕が大変であったことで牛田村からの水掛りは中止になったそうです。
牛田の清水谷には、その井戸と推測される遺跡が現存しており、その場所は牛田村庄屋・清水屋利兵衛屋敷跡だったと伝えられています。
*資料は、広島県教育委員会発行「縮景園史」の『牛田山の湧水導入方法』という項目を参考にしました
関連頁:(縮景園内で導入水の為の)水溜  (縮景園の)萬歳手水鉢
交流ウォーク探検隊で案内していただいた清水谷は、義姉の実家前の市民農園根際でしたが、縮景園に水を引いていたことも、庄屋の屋敷跡だったこともわたしは全く知らなかったことは、恥ずかしい限りでした。また、ここ市民農園の手押しポンプは、頁を作成しているという恥の上塗りでもありました。
 08.06.03裕・記編集

07.12.10撮影
広島市東区牛田東3 市民農園根際

08.05.03撮影

08.05.03撮影
清水の流れていた小川は、現在はコンクリート製で三方固められた溝となっています
   関連頁:(市民農園の)手押しポンプ

08.05.03撮影

08.05.03撮影
トタンで覆われていますが、中は井戸になっています



「水関連その他」編


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