てんじんまち
(旧中島地区) 天神町・説明板
  現在、平和記念公園になっている場所は、被爆前は中島地区とよばれ、幕末から明治・大正にかけて、広島市の中心的繁華街としてにぎわった歴史のある街でした。昭和20(1945)年8月6日(月)午前8寺15分、人類史上初の原子爆弾が米軍により投下され、この地区の住民はもとより、付近で建物疎開作業に従事していた多くの人々が非業の死をとげ、街並みも一瞬のうちに消え去ってしまいました。
天神町・町名由来
旧名は「舟町」といい、この界隈は川舟や海船が河岸に集まり、旅客や貨物の出入りが盛んな町でした。
広島築城の折に、毛利氏が吉田(現在の安芸高田市、戦国大名毛利元就の居城の高田郡山城の城下町)から分霊して迎えた天神様を祀る天満宮を建立したことに由来し、寛永から承応年間(1624〜1654)頃までの間に「天神町」に改称されたと云われています。
「知新集」に『滿松院菅神の御社あるより、後天神町と名つく、古名ハ船町とふ、祕記の寛永初年の繪圖にハ上船町下船町とあり、承應の繪圖より天神町とミゆ、しかれハ寛永中頃より正保慶安の間に町名改りしならん』とあります。
天神町の様子(大正末期〜昭和初期頃)
天神町は、町域が南北に長いため、江戸末期には北組、南組に分けられていました。
町の中央には南北に「天神町筋」が伸びており、この道を挟んで東西に狭い間口で家々が軒を並べており、中島地区の中でも、戸数、人口とも最も多い街でした。
江戸時代から天神町には医者が多かったと云われ、町の北側には、産婦人科、内科、皮膚科、小児科、歯科等の医院が集まっていました。町の南側には元安川を挟んで大手町に通じる木造の「新橋」がありましたが、増水のたびに度々流失しました。新橋の北側の川は、子どもたちにとって格好の遊び場でした。新橋の西側のたもとには、食料品を主体とした公設市場があり、中島地区の台所を預かっていました。「天神町」の由来になった天満宮は、町の最南端の元安川から少し西側に入ったところにあり、原爆により焼失しましたが、戦後元の位置に復元されています。
被爆・その後
天神町の南組は、昭和20(1945)年4月頃から現在の平和大通り一帯と南側で防火帯を作るために家屋が強制的に取り壊されていました。8月6日の原爆投下により、天神町は北組も南組も壊滅状態になりました。
当時、天神町に居住していたことが確認されているのは約310人で、昭和20年年末までに251人が亡くなったことがわかっています。
今(2008)年8月はじめ平和記念公園敷地内にあった旧中島地区(元柳町、材木町、天神町、中島本町)の街並みを紹介する説明板が設置されたという事を新聞などで知りました。8月6日原爆忌に行こうと思っていましたので、その時撮影しようと考えました。
その中の天神町は「旧天神町北組慰霊碑」「旧天神町南組慰霊碑」が建立されており、「旧天神町・天満神社」を訪ねたりしていましたので、ほんの少しだけの知識はありましたが、この説明板でかっては「舟町」と云われていたこと、「天神町筋」という道路の呼び名などを知りました。
08.12.30追記  08.12.17裕・記編集

08.08.06.撮影
平和記念公園 (元安川より、平和記念資料館・東館北側緑地帯の東側)
爆心地から420mにあった新橋。右側が天神町(1932年=昭和7年)  筑紫宗光氏撮影
旅客や貨物の出入りが盛んであった元安川沿い(1940年=昭和15年頃) 菊池繁三氏撮影



「平和記念公園」編



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元柳町・説明板
材木町・説明板
   (天神町関連頁)
旧天神町北組慰霊碑
旧天神町南組慰霊碑 
旧天神町・天満神社
天神町・説明板
中島本町・説明板





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