にょこどう
如己堂

  長崎市上野町に残されている永井博士の住まいだった「如己堂」です。
※如己堂の根際でみた「帳方屋敷跡・碑」についてもこの頁で取り上げています。
「如己堂は、二畳ひと間きりの家、北側の壁に香台、本だなを取りつけ、その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置いてここに私は身を横たえている。
西側は一面の白壁、何の飾りもない。東と南はガラス戸で、草に埋もれる原子野を隔てて浦上天主堂に向かう。この家を狭いと思うは、なまじ敷居で庭と仕切って、この部屋をわが物ときめた人間がみずから招いた窮屈・・・・・・寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である」と永井博士が言われています。
わたしは、2005年になってはじめて永井博士の『長崎の鐘』を読みこの如己堂に行ってみようと思ったのです。
パンフレットをみて、ヘレンケラー女史(米、教育家・社会福祉事業家:1880-1968)が1948(昭和23)年10月如己堂を訪れ博士とかたい握手を交わされたそうです。
また、如己堂敷地内に設置されている「帳方屋敷」石碑で(隠れ)キリシタンのことを少し知ったのです。
資料は永井隆記念館入館時いただいたパンフレットなどを参考にしました。 05.10.17裕・記編集

05.10.14撮影
 長崎市上野町22-6

05.10.14撮影

05.10.14撮影
如己堂(にょこどう)
  この二畳ひと間の小さな家は昭和23(1948)年春長崎浦上の隣人から贈られたものです。
永井隆博士は「己の如く人を愛せよ」というキリストの「みことば」を常に口に実行する人でした。
博士は家を建ててくれた人々の心を忘れず自分もこの愛に生きようとする心から如己堂と名づけました。
昭和26(1951)年四十三歳の生涯を閉じたその日まで書斎兼病室としてここに住んでいました。
帳方屋敷跡
「帳方(ちょうかた)屋敷」(如己堂のところ)について
慶長18(1614)年、徳川家康(1542-1616)が禁教令を発布したことにより、宣教師は国外に追放、教会はすべて破壊されてしまった。
当時長崎地方には約5万人のキリスタン(キリスト教徒)がいたが、武力抵抗はせず、以後250年間潜伏した。
この間、教義を伝えるための組織がつくられた。
指導者の頭を「帳方」と呼び四つの郷に「水方(洗礼を授ける役)」を一人ずつ、さらには各字に「聞役(指令伝達役)」を一人ずつ配置した。
この組織をつくり、初代の帳方を務めたのが孫右衛門で、以後その子孫が帳方を継承し七代目吉蔵(浦上三番崩れで入牢、獄死殉教)まで続いた。ここはその屋敷跡である。
永井博士の妻(原爆で亡くなった)緑さんは、吉蔵の子孫にあたる。








(くずれ)
崩れ:
(隠れ)キリシタンが摘発、処刑されることで、
浦上のキリシタンは表向き仏教徒であったが、帳方や水方、聞役などに組織されたキリシタンの秘密組織に属して信仰を守っていたそうです。
浦上三番崩れ: 1856(安政3)年密告により多くの指導者等が捕らえられ、転んで仏教徒となる者、殉教する者も出る。
この事件により、浦上の主要人物が捕らえられ、最高指導者の吉蔵が獄死、浦上村の帳方は廃止、水方は3人殉教、ドミンゴ又市のみ生き残ったそうです・・・
 広島キリシタン関連頁:(広島)五日市で殉職したキリシタンを偲ぶいしぶみ   (広島・己斐)キリシタン殉教の碑
07.06.24追記



「長崎ぶらり散歩」編・全体


何処に行ってもぶらり散歩一覧



(広島ぶらり散歩へ)
       (永井隆博士関連頁)
(長崎) 如己堂
(長崎) 長崎市永井隆記念館
(広島) 広島・長崎青年交歓記念碑 (1)
(広島) 広島・長崎青年交歓記念碑 (2)
(広島) (市役所)長崎・広島原爆都市青年交歓会記念植樹
(広島でもゆかりの人)永井隆





SEO [PR] カード比較  冷え対策 温泉宿 動画無料レンタルサーバー SEO