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西区己斐東に建立されている「キリシタン殉教之碑」です。 |
殉教碑題記 |
広島でキリスト教の伝道がはじまったのは1599(慶長4)年である。その翌(1600)年関ヶ原戦の結果、藩主毛利氏は萩に移り代わって入城したのは福島氏であった。幕府の禁令によって、キリシタンの取締りはいっそう厳しいものとなり、広島での宣教十七年後最初の殉教者が出るに至った。
そのあと浅野氏の時代を迎え激しい迫害と弾圧が続いた。
峻烈な拷問にも屈せず信仰を全うして天国に召された方たちの史実と正確を期してここに記録し附近に刑場のあったこの地に碑石を建立する。
この外、捕えられて行方不明となり処刑されたと推定されるものなど、史実が定かでないもの多数に及ぶ、この方たちを含め崇高な先人の信仰の跡を偲び、謹んで祈念し顕彰するものである。 |
1984(昭和59)年2月12日殉教記念碑を建てる会 |
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1616 |
元和2年 |
11月26日 |
磔 |
ドミンゴ 星野 嘉蔵 |
1624 |
寛永元年 |
2月16日 |
斬首 |
フランシスコ 遠山甚太郎 |
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2月16日 |
斬首 |
ルイス 信吉 |
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2月19日 |
磔 |
マチアス 庄原市左衛門 |
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3月8日 |
磔 |
ヨアキム 九郎右衛門 |
1634 |
寛永11年 |
2月13日 |
火焙 |
加左衛門と妻子 (3名) |
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2月13日 |
火焙 |
麹屋の続 イザベル(2名) |
1636 |
寛永13年 |
5月23日 |
穴吊 |
宗 清 |
1646 |
正保3年 |
12月23日 |
牢死 |
野村八左衛門 |
1652 |
承応元年 |
8月28日 |
牢死 |
八郎右衛門妻 |
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9月20日 |
牢死 |
野村 広介 |
1653 |
承応2年 |
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牢死 |
与八郎 |
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1654 |
承応3年 |
2月3日 |
斬首 |
横江忠左衛門、野村伝介妻、久三郎、善太夫、善太夫妻、七兵衛、長右衛門(7名) |
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磔(はりつけ) |
【「張り付け」と同源】昔の刑罰の一。罪人を柱にしばりつけ、槍で突き殺したもの。
古くは体を地面や板に張りひろげ、釘を打って処刑した。はっつけ。磔刑(たくけい)。 |
斬首(ざんしゅ) |
首をきること。また、その刑。 |
火炙り;焙り(ひあぶり) |
罪人を火で焼き殺す刑罰。火刑。 |
穴吊り(あなづり) |
穴に吊るすこと(汚物の中に逆さ吊りしての拷問) |
牢死(ろうし) |
牢屋に入れられ、そこで死ぬこと。獄死。 |
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2007年新聞報道で『広島の3名、フランシスコ遠山甚太郎、武士のマティアス庄原市左衛門、町人のヨアキム九郎右衛門も福者に列せられる』事を知りましたので追記しました。 |
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(当時の)刑場は旧山手川(現在拡幅整備された太田川放水路)河原だったそうです。
また、南区比治山本町の京橋川河原も刑場だったそうで、現在千切大師堂が建立されています。 |
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2005年交流ウォークで、キリスト教弾圧の歴史が広島にもあった事を初めて知りました。
キリスト教が既存仏教の教えをしのぐ布教力というものがあったのだろうな〜と思いながらこの頁を編集しました。 |
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2007年3月3日新聞に 共同配信ということで
『江戸初期殉教188人を福者に 来月(4月)にもローマ法王、ローマ法王ベネディクト16世は、江戸初期に日本各地で殉教した188人の日本人カトリック信者を、4月上旬にも福者(ふくしゃ)に列する。バチカン外交筋が3日までに明らかにした。列福式は11月、バチカンから枢機卿が出席し、長崎で行われる予定。
福者とは、聖人に準じた存在として、カトリック信者から公的な崇敬を受ける人。最近では修道女マザー・テレサが認められた。現在、日本関係では「日本26聖人」をはじめ計247人の聖人、福者がいる。これまで日本の聖人、福者は長崎関係の聖職者が多かったが、今回は(1)米沢(山形県)、京都、広島、山口、九州各地などに殉教地が拡散(2)一般信者が大半(3)約3分の1(60人前後)が女性−という点が特色だ。老若男女を含む一家全員が殉教した例もある。』という記事をみましたので追記しました。 |
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2005年交流ウォークの時この碑に案内していただきました。
2007年新聞報道で、ここ広島の殉教者(のかなの何人かが)も福者に列せられることを知り追記しました。 |
07.03.05更新 05.02.05裕編集 |