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長崎市西坂町に建立されている「日本二十六聖人殉教地・碑」です。
※二十六聖人等身大のブロンズ像嵌込記念碑の作者は舟越保武です。
※この地でみた「水原秋桜子・下村ひろし句碑」と「ルイス・フロイス年表碑」も取り上げています。 |
県指定史跡 日本二十六聖人殉教地 |
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指定年月日:昭和31(1956)年4月6日 所有者:長崎市
所在地:長崎市西坂町 |
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慶長元年12月19日(1597年2月5日)6名の外国人と20名の日本人が豊臣秀吉のキリシタン禁令のため大阪・京都で捕えられ、長崎に護送され、長崎の町に面したこの地で処刑されたのである。
この26名の殉教の出来事はヨーロッパその他に広く伝わり、文久2(1862)年ローマ教皇は、盛大な祭典をローマで行い、26名の殉教者を聖人に列し「日本二十六聖人」と称されたのである。 長崎市教育委員会 |
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日本二十六聖人殉教地 |
慶長元年12月19日(グレゴリオ暦1597年2月5日)※豊臣秀吉のキリシタン禁止令により捕えられた二十六聖人が処刑された場所。
キリストが十字架に架けられたゴルゴダの丘と似ていることから彼らはこの西坂の丘を自ら選んだと伝えられ、受刑者の中には12歳の少年もいたそうです。 |
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(日本二十六聖人記念聖堂) 聖フィリッポ教会 |
西坂公園横に建つスペインのガウディ建築風の2本の尖塔が特徴の教会。
殉教した26名が聖人位に列せられて100周年を記念して1962(昭和37)年に建設されたもので、2本の尖塔は天からの恩恵と昇天を表現しているそうです。 |
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目的地を回るのに歩きと電車ときめホテルに車と荷物を預けてから、長崎駅に一番近いこの26聖人殉教者記念碑を目指して丘の上に建つ教会めざし坂道を上りだしたのでした。 |
※1597年を慶長2年と記述していましたが、グレゴリオ暦と和暦の混同がありました |
08.04.13訂正 05.10.18裕・記編集 |
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関連頁:日本二十六聖殉教者聖堂(大浦天主堂) |
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05.10.14撮影 |
長崎市西坂町7-8 (フィリッポ教会を電車通りよりみる) |
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05.10.14撮影 |
1962(昭和37)年二十六聖人等身大のこのブロンズ像嵌込記念碑(舟越保武の作)が建立されました。
1952(昭和25)年には、ローマ教皇・ピオ十二世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めています。 |
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05.10.14撮影 |
05.10.14撮影 |
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ルイス・フロイス
1532 |
リスボンに生まる。 |
1548 |
イエズス会に入会、ゴアに行く |
1563 |
西彼杵郡西海町横瀬浦に着く |
1565 |
京都に入る |
1569 |
岐阜城で信長に謁見 |
1576 |
豊後地方で活躍 |
1581 |
ヴァリニャーノと共に安土へ行き、再び長崎に戻る |
1581 |
「日本史」の第一部を長崎で書き終わる、この年大阪城で秀吉に謁見 |
1592 |
マカオへ行き、少年使節の記録を書く |
1595 |
長崎に戻り「日本史」を完了 |
1597 |
3月15日26聖人殉教の記録を書く
7月8日長崎のコレジョにて帰天 |
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昭和60(1985)年建立 |
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Luis Frois
フロイス
(1532-1597) |
ポルトガルのイエズス会士。
1563年来日し、近畿・九州各地で布教。織田信長の厚意を得てキリスト教布教を大いに進展させた。
長崎で没。著「日本史」「日欧文化比較」「日本二十六聖人殉教記」など。
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コレジョ |
ポルトガル語。英語の「カレッジ」にあたる言葉だそうです。 |
※天国 |
「ばらいそ」と秋桜子は詠んでいます。 |
みずはらしゅうおうし
水原秋桜子
(1892-1981) |
俳人。東京生まれ。本名、豊。東大医学部卒。
医業のかたわら、「ホトトギス」に参加。主情的な作風で写生派と対立し、脱退。「馬酔木(あしび)」を主宰して、文語定型の新興俳句を推進。句集「葛飾」「秋苑」「霜林」など。 |
しもむら
下村ひろし
(1904-1986) |
俳人。長崎県生まれ。本名、宏。
「馬酔木」、「棕梠」創刊主宰・水原秋櫻子に師事、『石階聖母』(昭和34)『西陲集』第17回俳人協会賞昭和52年など |
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