未来を生きる子ら

  長崎市平野町の長崎原爆資料館屋上庭園に建立されている「未来を生きる子ら・像」です。
※像の作者は、余江勝彦です。
未来を信じ、未来に生きる若者として、戦火の中で傷つき苦しめられたアジアの人々に、そして、平和を愛し戦争のない世界を願うすべての人々にこの像を捧げたい。
戦後50年の春、「悲しき別れ―荼毘」に描かれた少女の一人、福留美奈子ちゃんの母、志なさん(93才、京都府綾部市在住)の、「長崎に平和を祈るお地蔵さんをたてたい。」という願いをつづった一通の手紙が綾部中学校生徒会に届いた。原爆にわが子を奪われた母の思いを折り鶴に込めて、ヒロシマへ修学旅行に行く私たちに託し続けてこられたおばあちゃん。
過去の歴史と現実について学んできた私たちの胸に、おばあちゃんの願いは強く響いた。その願いをかなえたいと、中高生の仲間、父母、先生、地域の人々が集まり「長崎にふりそでの少女像をつくる会」が生まれ、募金活動が始まった。
「像をつくって終わるのではなく、そこから世界へ平和を考える輪を広げたい。」そんな私たちの思いに共感して下さった全国の方々の支援と、像制作にたずさわった多くの方々の熱意と努力によって、像は完成した。核兵器のない自由で平和な世界を願い、ナガサキから世界の青空へと舞い上がる二人の少女によって人々の思いは一つに結ばれた。
この像がつくられた道のりこそ、平和な未来をつくる真実の道だと私たちは確信する。
長崎にふりそでの少女像をつくる会
長崎市平和会館前の広場から長崎原爆資料館に入る左手の庭園に建立されています、きものを着たおかっぱ少女の像かとおもい説明板を読み、悲しくやり場のないやり切れなさに(わたしは)目頭が熱くなりました。
『「ふりそでの少女像」モデルの母死去』
長崎市の長崎原爆資料館にある「ふりそでの少女像」のモデルになった少女の母で、核兵器のない平和な社会を求め続けた京都府綾部(あやべ)市の福留志なさんが2009年11月29日、肺炎のため市内の病院で死去された。綾部市最高齢の107歳でした。
福留さんは綾部市出身で、戦時中は中国・上海で生活していた。
長崎の知人に預けていた長女(当時10歳)が原爆で亡くなり、振り袖姿で荼毘に付された。「娘を供養するお地蔵さまをつくりたい」との願いを受けた綾部市民らが募金活動し、1996(平成8)年に長崎原爆資料館の屋上庭園に少女像の建立が実現した。
』 2009年12月1日(火) 報道で知りましたので追記しました。
09.12.01更新    05.10.22裕・記編集

05.10.14撮影
長崎市平野町7-8  長崎原爆資料館屋上庭園(平和会館への通路横)         

05.10.14撮影

05.10.14撮影
高さ2.4m、ブロンズ製   1996(平成8)年4月建立 像制作者・余江勝彦氏
説明板の絵を拡大しましたが、実際の絵は色がつけら(長崎原爆資料館のweb siteで見ることができます)
荼毘にふされた2人は福留美奈子さんと大島史子(ちかこ)さんだそうです
               悲しき別れ−荼毘(だび)
けが人や死体には驚かないようになっていた私が、忘れ得ない情景を見たのは8月19日のことでした。爆心地より約4km滑石の打坂というところの畑の中で、2人の少女が積み上げられた上に寝かせてありました。10歳前後で、私は姉妹であろうと思っておりました。あの頃見たこともない立派な着物を2人とも着ており、先ずその着物のあまりの美しさに私は我を忘れて見とれていました。心ではじめて着せられた晴着、死んではじめてされた化粧、周囲の心遣いが逆に何とも哀れでなりませんでした。何と悲しいことであろうかと思いました。私にとっては強烈に印象に残った情景であり、その悲しい物語を残そうと、あの時とても美しい着物は表現できませんでしたが、29年後1枚の絵に描きました。    松添 博※
松添博氏は当時中学三年生、浦上の三菱製鋼所に学徒動員されていたが、その時に限って3.8km離れた自宅に帰っていた。裸で爆撃機(B29)を眺めていて被爆し火傷を負われたようですが(正確にはわたしはわかりません。)



長崎原爆資料館、その周辺・概説 「長崎ぶらり散歩」編・全体



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