平戸城

  長崎県平戸市岩の上町に戦後になって復元されている「平戸城」です。
平戸城は別名:亀岡城といわれています(山鹿流※の縄張り設計による日本唯一の平山城です)。
平戸藩主松浦二十六代法印鎮言により1599(慶長4)年この地に城郭が築かれました。これが日の岳城ですが14年後の1613(慶長18)年焼失し廃城となりました。その後松浦家天祥鎮信は城郭再築をはかり山鹿素行(1622-1685)と共に縄張りの検討を開始しました。
1702(元禄15)年三十代雄香公棟が幕府に再築許可申請を行い翌年許可を得、1704(宝永元)年築城普請をはじめ1718(享保3)年2月に完成しました。これが平戸城(亀岡城)であり、本丸、二の丸、三の丸外郭より構成され、日の岳の輪郭が利用されています。
総面積17hで御殿は二の丸中央部に築かれ、築城には述べ5万6千人の人夫と銀969貫が費やされました。
1871(明治4)年の廃城まで藩主の居城でありましたが、その後は荒廃し、わずかに北虎口門と狸櫓が残っていました。それを1960(昭和35年)より天守閣をはじめ、各櫓が復元され1962(昭和37)年に完成したものです。
資料は亀岡公園に設置の説明板他を参考にしました。
(やまがりゅう)
山鹿流:
軍学の一派。祖は山鹿素行。
(やまがそこう)
山鹿素行:
(1622-1685)
江戸前期の儒学者・兵学者。会津の人。
江戸に出て朱子学・甲州流軍学、歌学・神道などを学ぶ。武教的儒学によって諸大名らに支持されたが、朱子学を排斥し古代の道への復帰を説いた「聖教要録」の筆禍で赤穂に配流。配所で「中朝事実」を著した。他に著「武家事紀」「山鹿語類」など。
2005年平戸に行きましたので、撮影しこの頁を編集しました。
06.02.07裕・編集

05.10.15撮影
平戸市岩の上町1458

05.10.15撮影
狸櫓由来記
この建物の名称は正しくは「多聞蔵」ですが、これまで誰もそうとは呼ばず「狸櫓」とばかり呼ばれてきました。その由来については第三十五代藩主・松浦観中公熙(ひろむ)が「亀岡随筆三十六」に記している。
この狸櫓より100mばかり下りたところに「平戸の松浦家」があり当時の狸の末裔と思われる一家が昔の約束通り旧家を護っているもちろん扶持米(餌)もいただいているとか・・・。
長年この櫓の床下には狸が住みついていたが、1830(天保初)年の修理の際に櫓の床板を全部はがされ、困り果ててしまったそうです。
そこで狸は、小姓に化けて城主の寝所へ出向き、「我ら一族を今まで通り櫓に住まわせていただけたら末永く城を守護します。」と懇願し、城主もこれに応え、櫓の床を元通りにしてやったことによるらしい。

05.10.15撮影

05.10.15撮影
天守閣

05.10.15撮影
見奏櫓

05.10.15撮影

05.10.15撮影
松浦壹岐守棟公再築亀岡城之図(天守閣内展示) 遣唐使船(天守閣内展示)

05.10.15撮影
平戸城天守閣から見た平戸大橋

05.10.15撮影
平戸城から見た(城下)町方面



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